- 作者: 永井均
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1998/05/20
- メディア: 新書
- 購入: 7人 クリック: 96回
- この商品を含むブログ (115件) を見る
- なぜ人を殺してはいけないか。「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむを得ない」というのが本当の答え。大人がなしうることがあるとすれば、政治的技量を身につける可能性を教えること。
- 勝つための方法は二通りあり、自分を強くまたは相手を弱くすることと、勝ち負けを決めるルール(解釈)を自分に有利なものに変えること。ルサンチマン理論の本質、弱さ、卑小さの本質は、解釈への意志にある。
第3章 第一空間−ニヒリズムとその系譜学
- 三種類のニヒリズム。第一は「神」*1が死んだという普通の意味でのニヒリズム。第二は「神」が生きている(だが〈神〉*2は死んでいる)という根元的なニヒリズム。第三は徹底的に「神」が死ぬ(だから〈神〉が生き返る)という徹底的なニヒリズム。
- 系譜学的な観点に立つとは、現在の意識にとっての自明性を出発点とすることの拒否。ニーチェの道徳批判は系譜学と結びつくが、この種の背後に回る批判は、論理的根拠が曖昧になり、かつこのような自分を特権的な立場におく在り方こそが系譜学的に分析するにふさわしい。
- 債務−債権関係、やましい良心は、残酷さに祝祭的な喜びを感じる人間の攻撃的な本能が、外に発散することを妨げられ内へと折り返したときに発生する。返済を吹聴する僧侶の創造的な力により、苦悩は彼岸の至福の存在への道とされるが、自身の罪過をごまかすことに対する極度の潔癖さが、つまり真理への意志が育てられる。
第4章 第二空間−力への意志とパースペクティヴ主義
- 第二空間では、真理とは、それなしには特定の種類の生き物が生存できなくなるようなある種の誤謬であり、結局は生にとっての価値が問題。
- 力への意志説は、パースペクティヴ主義*3と結びつく。世界内のある存在者やある現象が世界全体を解釈的に構築しているという発想は哲学的に幼稚であり、その意味で、力への意志説は悪しき形而上学そのもの。
- 力への意志説とパースペクティヴ主義は、奴隷の心性と奴隷道徳の在り方をモデルとした世界観であり、解釈への意思の表れ。
第5章 『反キリスト』のイエス像と、ニーチェの終焉
第6章 第三空間−永遠回帰=遊ぶ子供の聖なる肯定
- 永遠回帰に来世はなく、現世に対してメタ的な位置に立つ生の存在可能性を強く否定。第三空間には背後がなく、意味は浮遊した遊戯意味に変わる。生と世界の全体が芸術化され、ディオニソス的ということの意味そのものが変わる。
- 最高の力への意志だけが永遠回帰を受容しうるという意味で第二空間と第三空間は接合されるが、意志によって選ばれる限り、永遠回帰思想もまた、この一回かぎりの生に外から与えられる超越的意味になる。外部に救いを求めるよりもたちの悪い「悪い意味での開き直り」。
- 超人は、肯定するための否定であり、意志をなくすための意志であり、もはや何も目指さないことを目指す矛盾した形象であらざるを得ない。
- 永遠回帰は、全偶然をその偶然性を維持したまま必然化し、禁欲主義的僧侶の世界解釈といえども「無罪」(無垢、無邪気)−いや、「無罪」ではこれまでの価値評価にとらわれている限りにおいて不十分であり、「偶然=必然」として既に起こったということ自体において光り輝く−といわねばならぬ。
- 「現象」は背後にある何かが現れることを意味するのに対し、「仮象」はそのような背後の存在を前提としない。しかし、ニーチェはその背後に「力への意志」を置くことで仮象の仮象性を裏切る。
コメント ニーチェの思想が哲学的な形式を備えていないことへの手厳しい批判があり、そのため、彼の思想が自らの批判の対象として折り返される。「受動的ニヒリズム」「能動的ニヒリズム」の解釈は、前出湯山書(03/28付エントリー)の場合と異なるか。