備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之訳)『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』


 著者のハラリはイスラエル歴史学者。前々作『サピエンス全史』では「人間の過去を見渡し、ヒトという取るに足りない霊長類が地球という惑星の支配者となる過程を詳しく考察」し、そのパースペクティヴを踏まえ、本作では「今現在」に焦点を当て、21のキーワードを道標として現代社会の問題を論じる。本作で論じられる自由、宗教、正義、国家、経済等においては、それぞれの対象がそれぞれの物語を有し、その物語の中で意味を持つものとなるが、実体としては「虚構」であり、作品の中では、サピエンスの歴史というパースペクティヴの中で、その虚構性が暴かれ、意味が「解体」される。その刺すような明晰な主張は、一種、「マトリックス」の中に囚われた人間を外側の世界へと導くもののようにも感じられる。

自由主義という物語

 そうした物語の中にあって、自由主義という物語は、ファシズム共産主義などの対抗勢力による幾度かの危機を経ながら、過去数十年にわたり世の中の支配勢力となってきた。またこの物語は、資本主義、グローバル化、技術革新といった物語とも密接に結びつき、自らをリバイスしてきた。ではこの不死鳥のような自由主義という物語は今後も続くのか、或いはどのようなビジョンがそれに代わり得るのか。
 著者が最初に注目するのは、2008年の金融危機以来、世界中の人々が自由主義という物語に幻滅を感じるようになったことである。例えば中国は経済が著しく進展した一方、未だに政治の自由化を拒むが、この中国モデルを「歴史の流れに逆行している」と自信を持って言い切れる人は、今ではほとんどいない。さらには、自由主義諸国においても移民や貿易協定への抵抗が強まり、その果てにBrexitや米国トランプ大統領の誕生がある。本書からは外れるが、現下の新型コロナウィルスの感染拡大に伴う国境閉鎖や携帯アプリによる感染情報の管理*1といった動きも、原理的には自由主義の主張に相反するものといえる。
 そうした動きの中で著者が重視するのは、ITとバイオテクノロジーの双子の革命である。

 我々の脳と体の機能についての科学的見地に立つと、我々の感情は「自由意志」を反映しているわけではなく、生化学的アルゴリズムによって生存と繁殖の確率を素早く計算した結果生じるものであり、進化が育んだ合理性を体現している。「自由意志」は虚構であり、コンピューターアルゴリズムが人間の感情より優れた助言を与えられるようになれば、「自由意志」を絶対的なものと考えることの神話性も暴かれることになる。また、バイオテクノロジーと情報テクノロジーの融合は、人間をハッキングすることを容易にする。
 人工知能、AIは、その進化によって、しだいに多くの技能の分野で人間を凌ぐようになり、また持続性と更新可能性という人間には無縁の能力により、人間固有の仕事の領域を侵食することになる。これに関し、人間ができる新たな仕事が創出されることで、その穴は埋め合わされるという見方がある一方で、著者は、新たに生み出される仕事は高度な専門技術や知識が求められるため、非熟練労働者の失業問題を解決することはできないと語る。

未来との連続性

 では改めて、これらの議論を考察してみたい。著者の強調するITとバイオテクノロジーの双子の革命は、未来との間に断絶をもって変化を加速させるのものなのか。むしろ、過去との連続性によって評価できるものなのではないか。例えば現代の都市生活者である企業人は、サピエンスの長い歴史からみればサイボーグのようなもので、都市や企業という空間の中で生活することに「最適化」されており、企業社会の倫理によって既にハッキングされているようにも感じられる*2。雇用についても、これまでもこれからも消えていく仕事があれば新たに産まれる仕事もあり、かつての高度な技術や知識は、今やごく当たり前のものとなっている。将来も同様のことが繰り返されるだろう。ただし、新たに必要となる最低限の技術や知識を身に付ける時間や労力は、以前よりも増加する。そのための最低保証給付や労働時間の削減は必要となる。すなわちAIの進化がもたらすのは、ケインズが『孫の世代の経済的可能性』の中で語った「1日3時間勤務、週15時間勤務」の世の中がようやく実現する、ということなのかも知れない。このような時間の流れは、長期的な視点に立てば、今後も何も変わることのないもののようにも思われる。

ケインズ 説得論集

ケインズ 説得論集

真実の多様性

 情報テクノロジーの進化による人間のハッキングについていえば、その進化途上にある現代社会の中にあっても、例えばサブリミナル的な画像やフレーミング的な文脈を用いた人間の操作は、様々なレヴェルにおいてこれまでも行われてきた。一例をあげよう。会社の広報等でごく一般的に書かれ得る架空の文章を下に書いたが、これを読んで、どう感じるだろうか。

A社では、人事評価は社内規則で全ての従業員に対し実施することとされていましたが、2004年以降、人事部より支店長に対象者を選定した名簿を送付し、当該名簿に該当する従業員だけを人事評価の対象としていました。人事評価の対象とならなかった従業員は、評価に応じて定まる基本給の上乗せ分を受け取ることができませんでした。

このような情報を見かけたら、「A社は一部の従業員に対し、2004年から給与の過小支給を行っていた」と考えるのが普通であろう。また従業員の側に立つと、長年にわたって給与の過小支給を行ったA社の人事部や支店長の行為は許し難く、特に給与差別の仕組みを考案した2004年当時の人事部の担当者は責任が大きい、とも考えるだろう。しかし「全ての職員に対し人事評価を実施する旨を定めた社内規則ができたのは2018年であった」、「2004年以前は慣例として人事評価が行われていたが、基本給の上乗せ分は一律であったため、2004年から昇給対象者を人事部が選定することにした」、「2018年に社内規則を改正したが、その後も対象者を人事部が選定する仕組みが継続された」というのが事実であった場合、真実はその印象とは大きく異なるものとなり、責任の所在も異なるものとなる*3。「社内規則を改正したのは2018年であった」という事実を巧妙に伏せることで、テクノロジーの進展如何に拘らず、人間の認識は簡単に操作されてしまうのである*4

 情報テクノロジーの進化がもたらす「ビッグブラザー」的な存在も、程度の差はあれ、これまでも存在していた*5。犯罪の抑制や個人の健康管理のため等、一定レベルで個人情報を管理し功利主義的な行政運営を行うことは、どの国でも行われている。中国モデルの問題は、情報テクノロジーを用いた功利主義的な国家運営にあるのではなく、政治の自由を拒否し国民に選択の自由がない点に帰すべきものなのではないか。むしろ、テロや災害、感染症の蔓延等が大衆の深層心理に恐怖を植え付け、功利主義的な行政への願望を引き出すのであれば、一概にそれを否定できるわけではない。情報テクノロジーをより身近なものとして感じている世代の技術者や企業家には、中国モデルが持つ強権的な統治の仕組みに、むしろ「憧れ」感じる者も多いように思われる。
 では、そのような功利主義的国家ないし共同体の中の架空の物語、作られた虚構の「真実」によって疎外された場合、どのように行動すべきか。国家であれ他の共同体であれ、作られた「真実」に対抗する別の(架空の?)「真実」を信奉することは、(それ自体、虚構の共同体なのかもしれないが、)現代社会の中でも、例えばオンラインのコミュニティ等のような形で存在している。その中にいる人々にとって、真実はそのようなものであるし、そうした物語の中に生きることも自由だ。このような、虚構でもあり得る「真実」の物語によって形作られたマルチヴァースのような空間がそこいら中に存在している、という世界が、ポスト・トゥルースの時代に相応しいものであるようにも感じられる。

*1:ただし日本の場合、接触情報に係るプライバシーの確保に厳格な仕様となっている。

*2:ちなみに後述するケインズ『孫の世代の経済的可能性』には、職業倫理により仕事がなくなることを不安に思う(当時の)現代人を揶揄するくだりがある。

*3:ただし「人事部が評価対象者を決めるのは不適切ではないか」との論点は、「別次元の問題」として残る。

*4:私見では、文章を理解する力が高い者の方が、その理解力への過信により、真実とは異なる解釈をする傾向が強いように感じられる。

*5:例えば、https://cruel.org/books/arthurking/japan-intercept.html