- 作者: 稲葉振一郎,立岩真也
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2006/08
- メディア: 単行本
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- 立岩所有論において特徴的なことは、所有の主体というものが、理論の主人公としてではなく、主人公にとっての他者として現れること。これに対し、ロック=森村進流の所有理解は、働いて獲得したものは自分のものであり、自分のコントロール下におく、というもの。− 「私の身体は私の身体であるということと、身体によって生産したものが私のものであるということは命題として違う」「自分が自分から切り離して市場に供するようなものっていうのは、逆に、むしろ誰のものであってもよい」(立岩)。
- この世界には、自分がいて、他者というものが存在する以上、所有という問題は逃れ難い。この「他者」には、「者」と「物」があり、ものには人間と人間以外の生き物がいる。「所有というのは、常識的に考えると人と人との関係であるし、また人とものとの関係であり、ものを介しての人と人との関係でもある」(稲葉)。
- 立岩所有論では、人がものを所有できるのは、そのものが自分ではないから。ロック=ノージック=森村の理論では、人は自分の身体をまず自分のものだと考え、所有された財産は、自分の身体の一部であると考えられる。立岩所有論では、そうしたことは原理的にあり得ない。
第2章 市場万能論のウソを見抜く
- 所有と市場は区別して考えるべきであり、所有の方が市場より前にある。ものには、市場に置いて取引の対象にしてよいものとそうでないものがあり、譲渡し得るものの範囲で市場経済を回していくとして場合、そこに含まれるのは「売る」ことが出来るものだけか、「貸す」ことが出来るものも含むのか。立岩所有論では、取引を行う相手の方からその線引きを考えはじめる。
- 経済学の想定する初期条件では、まず人は市場取引に参加する以前に存在し、参加せずとも生きていける。このような条件が成り立たない場合、市場は底上げ機能を発揮(パレート改善)するとは限らず、このことは「結果の不平等」論への有力なサポートとなる。市場は、コミュニケーションの透明性を大前提に成り立っている仕組みであり、どこかで格差の範囲がある程度以下であることを前提としている。
- 「社会における分配が平等か不平等か」(状態原理)と、「社会はパレート改善に向かっているのか」(歴史原理)には、クリティカルな違いがあり、後者にとって、マクロ経済的な環境が意味するものは重要。社会は、ダイナミックであった方がよいが、そのダイナミズムは、ある種の安定の中になければ行けない。
第3章 なぜ不平等はいけないのか
- 自由な結社であり、市場の中で動く協同組合を主体とする市場経済というものを考えている人はいるが、東側の大半の論者は、トータルなワンセットとして市場経済に移行しないとダメだという結論に達した。− 組織の中だけで平等主義的な分配をしようとすると、外部の接触面で、人材の流出等の問題が起こる。
- ロールズ、ノージックは、合意を超越する規範、その中心に人格の尊厳性、唯一性、絶対性がありそれを尊重する。但し、そこに他者との関係は必要とされておらず、一方、立岩理論では、その原点に他者(子供、次世代)との関係がある。マクロ経済学の世代重複モデルによれば、次世代との世代間取引をした方が、全世代に渡りパレート改善できるが、そのためには、世界には終わりがないことを前提としている。
第4章 国家論の禁じ手を破る
- マルクス主義(リベラルな社会契約論も)は、「相手の薄弱な根拠を解除すれば、真実は現れる」というフレームを持っていたが、フーコーは、そうは言えず、それを行っても批判の根拠はなくならないと指摘。フーコーの権力論では、まず権力があり、その中で主体が産出される。しかしながら、そこに特権的な主体はいない場合であっても、振り返ると、ある種の権力の流れや権力者の姿を人は見てしまう。
- しかし、自分を生み出した社会の配置を「おかしい」と思うことはあるし、自分に価値観を与えた社会に反抗することを「規範的に不整合」と責める必要はない。このように、フーコーの隘路は突破される。
- ルーマンの議論を応用すると、国家は、基本的人権という制度、フィクションを守り、国家が手出ししてよい領域と、よくない領域の区別をひたすら生産し続け、自己限定することで、逆に自分のアイデンティティの確かさを根拠づけることが出来る。民主主義をきちっと作動させるために、その力をある限界の中に封じ込めることが必要であり、その限界を設定するのが立憲主義。
- 不平等の発生原因には、搾取だけでなく、人を半端な形で、持たざるものとしてこの世に送り出すことによっても生じる。経済がちゃんと回っている世界で発生する不平等は、後者ではないか。不平等批判の正しい論法は、「他者としての将来世代をこの世に到来させることを肯定するからには、その他者がきちんとこの世に存在することが可能であるような環境を整えておくことは、現在世代の義務である。その義務を怠るならば、世代間の不平等が発生してしまう」という論法。
コメント ポイントを掻い摘んでみたものの、内容がまとめ切れたわけではない。
立岩理論の特異性は、「他者」が居ることを受容しその存在を尊重することを基本とし、所有という制度、市場における取引は、「他者」或いは(自分の身体以外の)「物」との関係の中で、かなり消極的な形で認められ得ると考えるところにあるように思う。
ここで「労働力」の所有、取引ということを考えてみる。稲葉氏の議論は、「労働力=人的資本」というものが存在し、それはれっきとした資産であるとの擬制を貫き、そのような財産権の主体として労働者を位置づける、というものであった。但し、ここには一つの前提がある。不況下においては、働く場がない、努力のしようがない、という状況が、通常の環境下においても生じることになり、(本来、お呼びでないはずの)責任ある主体としての国家が常に要請される。一方、完全雇用下においては、通常は(ある限界的な部分を除けば)、責任ある主体としての国家は要請されず、保険制度としての国家だけが要請される。このように、稲葉氏の議論では、景気拡張的な環境が安定的にもたらされることが前提とされ、要請されている。
これに対し、立岩氏は、労働能力が一人ひとり異なるのは当然で、それを受け入れたくない者もいるとし、そのような状況下では、「結果の平等」が要請されされる場合もあり、労働を分割した上で公平に分配することが求められるとする。一方、我が国においては、経済成長を目指す必要はないとする。立岩氏の戦略が実行された場合には、明らかに、稲葉氏の議論における前提条件は満たされない。
「他者」を時に過度に尊重する立岩理論の仮想敵は、ダーウィンの自然淘汰説を認め、適者生存の原理によって人類が進化することに最大の価値をおく思想なのだろうと思われる。しかしながら、自然淘汰説は、資本主義経済を駆動させる上での基本であり、それによって経済はダイナミズムを確保し、経済成長は達成される。とすれは、立岩理論を経済全般に拡張することは、必然的に経済の停滞を招くであろう。しかも、この停滞はある定常的な状態に経済を収斂させることはなく、スパイラル的な富の縮小を生じさせる−この事実は、本書の議論の中からもつかみ取れるだろう。
さらに問題なのは、どのようにして実現させるのか、と言うことである。地域、世代を超えてあるべき規範は、(仮にそのようなものがあるとして、)いかにして実現されるのだろう。稲葉氏と同様、立岩氏もリベラルな資本主義経済を理想としているように読めるのだが、立岩氏の戦略を実現していく上で、そこには、何か超越的な主体があることを前提とせざるを得ないのではないか。だとすると、社会主義の失敗の教訓は、何ら生かされていない、と言うことになるのではないだろうか...つまりは、素直にソシアルな道に進んだ方がよいのでは、と思うわけである。