業績・成果主義とホワイトカラー・エグゼンプションについて
1.企業における「業績・成果主義」の実態について
断片的な情報に基づき、自分が考える一般的な「業績・成果主義」とは次のようなもの。
まず、月例給に比して賞与のウェイトを高めることで、企業・部門の業績がより給与に反映される。月例給については、新たに(一般的には、以前より大括りな)役割・仕事に応じた「等級」が定められるが、これは、言わば降格ありの職能資格制度。従来の職能資格制度の運用では、退職者に支払われていた給与額(内転原資)から、新卒採用者の初任給分を減じた額が現職従業員に配分されることで、「積み上げ型」の給与制度として運用されていた。一方、いわゆる「業績・成果主義」においては、個別の査定に基づくことで「ダイナミックな」給与制度として運用が成される。査定に当たって参照される目標は、一般には「目標管理制度」が採られる場合が多いが、職務に応じた「職務記述書」で大まかな目安が定められている。つまり、表面的には従来の職能資格制度に似た概念図が用いられるが、かなり職務給的な要素が加味されるようになっている。
また、より高い職務へ昇進しない限り、同一職務内での等級の上昇による昇級しかなく、かつ、そこに止まる年数が長くなると、昇級そのものが無くなってしまう。この点については、従来、非正規雇用であったところを正規雇用化する可能性を示唆する。つまり、非正規雇用を正規雇用化できないのは、将来の給与負担が大きいためであり、(量として多い)低技能(=低等級)労働を続ける限り将来の給与上昇には歯止めがかかることになれば、必ずしも正規雇用化を躊躇する理由はなくなる。当然、当該等級内での相対評価はより厳しいものとなる。
このような制度の変化は、従業員(特に正社員)に係る労働費用のうち『「これ以上下げることが出来ない」部分』をこれまで以上に低下させる。*1つまり労働費用の『「これ以上下げることが出来ない」部分』については、労使関係の中で現実に修正されてきている面もあると考えられる。
2.「業績・成果主義」とホワイトカラー・エグゼンプションの関係
現実に企業の給与制度がこのような方向へ変化しており、長期的にみてホワイトカラーの働き方は変化し仕事と余暇との区別も曖昧になる場合もある。この場合、労働時間に係る一律的な規定を適用し給与額が労働時間に応じて決まることは、必ずしも適切とは言えない。「積み上げ型」賃金制度+一律的労働時間管理という組み合わせであれば一定の整合性を持ち得ていたものであっても、「業績・成果主義」賃金制度+一律的労働時間管理という組み合わせでは、働く現場において不合理な状況を生み出し得る。*2とすれば、一定以上の年収要件を満たし自律的に仕事を進めることが可能な労働者についてホワイトカラー・エグゼンプションを導入することは妥当と言えるのではないか。
いわゆる「サービス残業」については、「過労死」等従業員の健康管理に関わる問題(企業の安全配慮責任)から、近年取締りが強化されていると言われている。しかしながら、賃金制度の面から見ると、むしろ、自律的な働き方をするホワイトカラーに対して一律的な労働時間管理を適用することの方が不合理である。ホワイトカラー・エグゼンプションの導入は、企業内の「現実」に合わせた制度変更であるようにも見受けられる。*3(01/17/07 修正)
一方、日本の雇用慣行の持つ(長期的な)能力形成機能を重視する立場に立てば、雇用保護規制の緩和に関しては、企業の雇用者に対するコミットメントを弱め長期的にみて生産性を低下させる懸念がある。
(過去の関連エントリー)
(追記)トラックバックいただいたBaatarismさんの所で、従業員の健康管理・生活時間の確保に係る経済学的に説明可能な管理機構について少し議論をしております。
- 「ホワイトカラー・エグゼンプション(WE)をワシも考えてみる」(Baatarismの溜息通信)
(追記)各所で話題になっている奥谷禮子氏の発言(例えば、下の労務屋さんや山崎元さんのエントリー等)ですが、経済が常に完全雇用で過剰雇用等のスラックが発生しない(非現実的な)状況を前提とするならばまだしも*4、景気の循環的変動によって過剰雇用が発生し得る場合には、使用者の最適化行動に対する何らかの歯止めの「仕組み」(労働基準法や労働基準監督署等)は当然必要でしょう。またこの「仕組み」は、景気の循環的変動に対するビルトイン・スタビライザーとしても機能します。
- 「奥谷禮子さん」(吐息の日々〜労働日誌〜)
- 「「東洋経済」の奥谷禮子氏へのインタビューについて」(評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」)