備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

生きる理論と持続可能な理論

※追記を追加しました。(05/17/09, 05/18/09)

 たまたま最近、手にした本からの引用:

 マルチチュードとは内在性の概念であり、多数者が個別性の総体であるということである。このことを確認し、出発点とするならば、「人民」という概念がその超越性を失ってしまった後に残っている現実の存在論的規定の輪郭を描くことができるであろう。
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 プラトンからホッブスヘーゲルにいたる哲学はにおいては(ママ)馴染みの弁証法的発展による超越がなければ、多数の統一は生じえず、その概念はメタファーに過ぎないので、マルチチュードという概念は本質的に有効ではない、というような異議はわれわれも理解できるし、またそのような異議には事欠かかない(ママ)。しかし、マルチチュードの概念、つまり弁証法止揚による代表化を拒否するような多様性であればあるほど、個別的で主体的であろうとする要求は強まるであろう。だから先のような異議は薄弱なものである。弁証法的な止揚は成功しないままであろう。というのも多数者にとって、多くの者の統一というのは生命あふれるものであり、生命あふれるものは弁証法によってまとめられるのは困難だからである。(トマス・アトゥツェルト&ヨスト・ミュラー編「新世界秩序批判」所収のアントニオ・ネグリマルチチュード存在論的規定』より)

新世界秩序批判 帝国とマルチチュードをめぐる対話

新世界秩序批判 帝国とマルチチュードをめぐる対話

この、特に後半のパッセージを読んで、何かに似ているな、と思い、思い出したのが、安富歩「生きるための経済学」のなかの以下の文章です。

 つまり、経済学は「イチバ」についての学問ではなく、抽象的な「シジョウ」についての学問なのである。私自身、大学で経済学を齧って以来、ずっとこの慣例に従ってきた。そして素人が間違って「イチバ価格」といったりすれば、せせら笑ったものである。(中略)
 本書が目指すのは、「イチバ」についての「市場経済論」である。それは、抽象的な需要曲線と供給曲線とが交わったり、抽象的な経済人が最適化したり、抽象的な競売人が価格決定したりする世界についての議論ではない。具体的な生身の人間が、コミュニケーションをくり広げるなかで、現実に物理的な物質やエネルギーの出入りをひき起こす場面についての考察である。こういったコミュニケーションのなかで、処理不可能なはずの膨大な計算がやすやすと実現されるという奇跡の展開する現実の市場(イチバ)についての考察である。
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 この調和はもちろん、なごやかなものとは限らない。自由な人の集まりは多様であり、困難にであったときには互いに激しく意見をぶつけ合う。ある種の攻撃性は、人間が生きるために大切なことであり、人生に直接間接の好影響を持つ。悪を感じたときに、怒りを覚え、表現することができなければ、自分の周囲の善を守ることなどできない。そういった激しさをともなう多様性のなかの動的な調和こそ、孔子の「和」にほかならない。
 こうして展開される創発的コミュニケーションを通じて価値が生み出され、それが人々に配分される。このような経済を「ビオフィリア・エコノミー(ビオ経済)」と呼ぶことにしよう。

(参考)http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20080624/1214322022

 このビオ経済学に対し、安富氏は、アダム・スミスに始まり現代に続く市場経済にかんする学問を「ネクロ経済学」とよんで対置させます。

 ここに引用した2つの文章の中には、歴史的に構築された理論的な構造物よりも、そこに生きる人を基準とする新しい概念を生み出すことを重要視したい、というような志向性が感じられるのと同時に、これらの文章には、共通するものの見方があるようにも感じられます。
 現在の経済危機の渦中では、市場における均衡概念に基礎をおく経済学、あるいはいわゆる「新自由主義」的な考え方に対する批判が強まりますが、こうしたなかでは、グローバル化や高度情報化という不可逆的な現実の変化を受容する「帝国」とか「マルチチュード」とかいったワーディングへの関心が強まることも、あり得べきものでしょう。最近、労働問題のなかで労働経済学や労働法学が重視される風潮を批判し、労使関係論こそが中心だとする主張を見かけましたが、こうした主張もまた経済危機という渦中にあってこそ、より多くの注目を集めるものだといえます。*1
 このような「ものの見方」を一括りにして、ここでは「生きる理論」とよぶことにします。この生きる理論の問題点をあげるならば、アド・ホック*2なところであり、歴史の風雪に耐えきれるものとはなり得ないのではないか、という点が上げられます。*3
 経済危機のなかで、生きる理論に対する関心が高まり、既存の理論=「持続可能な理論」に対する批判が生じることは避けられないでしょうし、こうした向きに一理あることも否定し切れませんが、このような時代だからこそ、歴史の風雪に耐えられる「持続可能な理論」からの含意をもまた、くみ取っていく必要があるのではないか、と考えています。

 最後に、最初の本の訳者解説の一部を引用します。

 ネグリマルチチュードに関して自ら「ヴェーバー的な社会学の意味ではアモルフ(無定形)だ」と述べているように、ハートとネグリは概念の明確化や精緻化ということにはほとんど関心がないのかもしれない(むしろ、そうだからこそ時代を先取りするような大規模な鳥瞰図が描けるのかもしれないが)。この点で「学問とは明晰性を与えるものだ」とするヴェーバーの立場を踏襲する筆者とは立場が明らかに異なる。さらに彼らにはマルチチュードの自発性と直接行動性への過剰なまでの思い込みと期待があり、組織論的な関心はほとんどない。(中略)マルクスからヴェーバーを経てフランクフルト学派に連なるドイツのアカデミズム、また組織論を重視するドイツの政治文化に慣れ親しんできた筆者には、その意味でも一種の違和感があるのかもしれないが、逆にそうであるからこそ知的刺激を受けたことも確かである。

追記

 ここで「ヴェーバーの立場」として語られるものは、いうまでもなく、「職業としての学問」の中におけるそれを指しています。

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)

 この本では、学問の世界で「個性」を持つ者は、その個性ではなく、仕事(職業)に献身する者のみである、ということが語られ、その学問の職分について、(1)実際生活において、外界の事物や他人の行為を予測によって支配するための知識を得ること、(2)ものごとの考え方、そのための用具と訓練、そして最後に、(3)明確さを与えるもの、であることが指摘されます。
 その一節を、以下に引用します。

 すなわち、われわれは諸君につぎのことを言明しうるし、またしなくてはならない。これこれの実際上の立場は、これこれの究極の世界観上の根本態度─それは唯一のものでも、またさまざまの態度でもありうる─から内的整合性をもって、したがってまた自己欺瞞なしに、その本来の意味をたどって導きだされるのであって、けっして他のこれこれの根本態度からは導きだされないということがそれである。このことは比喩的にいえばこういうことである。もし君たちがこれこれの立場をとるべく決心すれば、君たちはその特定の神にのみ仕え、他の神には侮辱を与えることになる。なぜなら、君たちが自己に忠実であるかぎり、君たちは意味上必然的にこれこれの究極の結果に到達するからである。学問にとってこのことはすくなくとも原則上可能である。哲学上の各分科や、個別学科のなかでも本質上哲学的なもろもろの原理的研究は、みなこの仕事をめざしている。そして、われわれもまた、われわれの任務をわきまえているかぎり─そしてこのことはここでは当然の前提である─各人にたいしてかれ自身の行為の究極の意味についてみずから責任を負うことを強いることができる、あるいはすくなくとも各人にそれができるようにしてやることができる。わたくしとしてはこのことは、各人のまったく個人的な生活にとっても小さな事柄であるとは思えない。もしある教師にこのことができたならば、わたくしはここでもこのようにいいたくなる、かれは「道徳的」な力に仕えているのである、明確さと責任感を与えるという義務を果たしているのである、と。わたくしの考えでは、もしある教師がその聴講者に向かってある立場を強いるとかまた暗示するとかをしないという意味でヨリ良心的であるならば、それだけ容易にかれはこの義務を果たすことができるであろう。

(追記)

 トラックバックがありましたので、若干のコメントを追加します。

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-302.html

  • 『会社が法人(構築物)であることと「市場における均衡概念に基礎をおく経済学」の考え方は必ずしもシンクロしない』との指摘があります。この「シンクロ」の意味するところはよくわかりませんが、わたしのエントリーでは、あくまで比喩的としてこの注記を書いたのであり、頑健な論理性を持つ理論としての「・・・経済学」を、事業の定礎にある制度としての会社に対照させてみたまでです。『労使関係が生々しい』ものであることとは何ら関係はありませんし、それを否定する理由もありません。なお、比喩として不適切という指摘であれば、それに十分な理由がある限り、受け入れる余地はあります。
  • 労使関係論の立場から、労働経済学が「主人のような顔をする」ことについて批判したい向きがあるのは理解できますが、そもそもそれが「絶滅の危機に瀕している」ことの一義的な責任は、労使関係論の側にあり、自己反省してしかるべきではないでしょうか。私見では、労使関係や労働政策の現場において、労働経済学的なものの見方がこれだけ尊重されるようになった背景には、労使関係や労働政策に携わる人間がそれを便利な道具として活用するようになったことが最初にあり、その結果として母屋を取られた、というのが実態のような気がしますが。なお、その結果の善し悪しは、一概にはいえません。
  • 「集団的労使関係こそが分権的な市場原理を労使関係に持ち込む基本原理となっている」とか、「左派政党が思想集団に化し、労働者の利益代表ではなくなった」との指摘については、興味深く拝見しました。

(以上)

*1:ただし、こうした主張には一理あると感じさせるものがあることも否定できません。例えば、日本の解雇規制に対する批判がありますが、こうした批判を行うのはたいがい経済学者(しかも、よく目立つのは労働経済学を専門とするひとではない)であって、実際に経営や労務の実務を行っている人々からは、解雇規制に対する強い批判はあまり聞かれません。この場合、解雇規制を批判する「ネクロ」な理論よりも、実務担当者が持つ生きた理論の方に有用性を感じてしまう、というのは、わたしだけではないでしょう。

*2:それに加え、その理論を語る者の立ち位置に都合のよい理論に仕立て上げられてしまう、という懸念が生じる可能性があります。

*3:比喩的に申せば、会社を動かすのはあくまで人ですが、歴史の風雪に耐えて残るのは、会社という法人=制度という「構築物」である。会社は人によっていかようにも生かされるが、その定礎となるような方針を定めているのはあくまで「構築物」なのではないか・・・