このところ、期待インフレ率の低下が指摘されるようになった。三菱UFJモルガン・スタンレー証券の試算によれば、2015年12月の期待インフレ率は、日本銀行による「量的・質的金融緩和」の導入以降最低の水準とのことである*1。内閣府『消費動向調査』に基づく手元の推計でも、2015年3月をピークに期待インフレ率のプラス幅は縮小している。当該推計のピーク以前の上昇分には消費税率引上げの影響も含まれると考えられ、これを考慮すれば、期待インフレ率は2014年内には縮小過程に入っていたとみられる。なお、消費税率の引上げがデフレを深化させる可能性が高いことは以前のエントリーでも指摘した通りであり*2、このこと自体、特に不思議ではない。期待インフレ率がゼロに近い低い水準において、増税に沿った企業コストの増加を図ることは難しく、デフレは必然的に深化する。
この事実が明瞭に現れているのは春闘における労使交渉である。これも以前のエントリーで指摘したことだが、2015年の春闘賃上げ率は、 ベースアップ分は1%未満であったとみられる*3。すなわち、日本銀行の目標インフレ率である2%は、労使間の賃金交渉における目安の役割を果たしておらず、期待インフレ率はこの時点で目標インフレ率を下回っていたことになる。この意味では、「量的・質的金融緩和」はその機能を果たしていないのである。
それに加えての消費税率の引上げである。企業コストが消費増税によって実質的に削減され、賃上げが想定以下の水準に止まれば、必然的に実質賃金は低下する。近年の実質賃金の低下は、パートタイム労働者が増加し相対的に賃金の低い労働者の構成比が高まった影響もあり、その分を割り引いてみる必要はあるが、パートを除くフルタイム労働者の実質賃金を推計しても、これまで低下傾向にあったことに変わりはない*4。
フルタイム労働者の実質賃金は、「量的・質的金融緩和」の効果が現れ始めた2013年7月から低下し始め、消費税率が引き上げられた2014年4月からさらに低下幅を強めた。この間、名目賃金は概ねプラス寄与を続けたが、物価上昇によるマイナス寄与には追いついていない。2015年4月からは、夏季賞与の影響を受けた6月を除けば概ね上昇しているが、その理由は消費税率引上げの効果が剥落したことに加え、量的緩和の効果が実物経済の中にほとんど現れなくなったことで、物価の寄与が弱まったためである。決して、目標インフレ率である2%の物価上昇に呼応し、名目賃金にも応分以上の増加があったためではないのである。
名目賃金の伸びが期待通りのものでないことは消費の動きからも読み取れる。世帯当たりの名目消費支出は、月々のブレは大きいものの、消費税率が引上げられた2014年4月以降、総じてマイナスとなる月が多くなっている。夏季賞与の支給が大きい6月も、前後がプラスである中、目立ってマイナスとなっている。量的緩和が中立的に働く場合、物価が上昇し、一定のタイムラグを伴って名目家計消費も増加するが、実際には、賃金コスト圧縮圧力が足枷となり、目論見どうりに家計消費は増えず、むしろ逆向きの効果を与えた可能性がある*5。
実質賃金や家計消費の減少は、さらなる金融緩和への歩みを鈍くすることになるだろう。名目賃金が思うように伸びない中で、インフレは家計の購買力を目減りさせ、消費をも低迷させている。期待インフレ率を上昇させるためには、一人平均名目賃金の増加率が目標インフレ率を超えるよう経済主体に働きかける必要があるが、現下の春闘の動きにはそうした効果は表れていない。日本銀行の判断には、国会が来年度予算の審議を控える中で、政治的な制約も付くことになる。
一方、マクロでみた雇用者報酬は、雇用が堅調であることも踏まえ着実に増加している。その結果として、世帯間の格差も拡大する兆候はみられない*6。ただし、目標インフレ率に沿った『経済の好循環』という経路は実現できておらず、その達成に向けた政府・日本銀行の姿勢も弱いというのが現実である。雇用の増加も、実質賃金の減少によってこれまで欠員とされていた分の労働需要が顕在化しただけであるならば、企業のデフレマインドには何ら変わりがないことになる。目標インフレ率が経済主体の期待に働きかけるような新たな経済秩序の実現は道半ばであり、むしろ消費税率の再引上げを契機とし、経済は再びデフレ下の秩序に舞い戻る可能性が高いように思われる。
*1:http://www.sc.mufg.jp/report/business_cycle/bc_report/pdf/bcr20160108.pdf
*2:http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20140402/1396436820
*3:http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20150424/1429882685
*4:この推計では、できる限り「正社員」のデータに近づけるため、規模も30人以上の数値を用いた。
*5:ベクトル自己回帰モデルによる簡易な分析で、2010年1月以降のデータから、消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合・前年比)が一世帯当たり消費支出(二人以上世帯・前年比)に下向きの影響を与える因果性がみられた。
*6:*3: のエントリー参照。