ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

シルヴィア・ナサー『ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡』

ビューティフル・マインド: 天才数学者の絶望と奇跡 (新潮文庫)

ビューティフル・マインド: 天才数学者の絶望と奇跡 (新潮文庫)

1994年のノーベル経済学賞を受賞した数学者、ジョン・フォーブス・ナッシュJrの半生を描いた大作。2001年には本作が原作となり映画化され、アカデミー賞を四部門で受賞している。ナッシュについては、2015年のアーベル賞受賞直後に自動車事故に合い、妻のアリシアとともに亡くなったことが記憶に新しい*1。本稿の筆者は映画『ビューティフル・マインド』を見ておらず、ナッシュについては、統合失調症を患った悲劇の数学者であること、ゲーム理論の「ナッシュ均衡」にその名を残していること程度の知識しか持ち得ていなかった。本書を読み、ほぼ初めてこの数学者の全貌を知ったことになる。
本書を通じナッシュの業績を見渡してみると、その世に知られるきっかけとなったゲーム理論以上に微分幾何学における実績が大きく、ウィキペディアにも「専門分野は微分幾何学でありリーマン多様体の研究に関して大きな功績を残している」とある。また、2015年のアーベル賞受賞の理由は「非線形偏微分方程式論とその幾何解析への応用に関する貢献」である。本書では、直感的に課題を見出し多彩な分野に足跡を残す天才型の数学者として描かれている。その一方、ローウェル・パトナム数学競技会というアメリカの大学生を対象とした有名な数学競技会において成績優秀者上位5名から漏れたことに屈辱を感じ、そのことが、その後の彼の人生にも影響したことを窺わせている。結果的にノーベル経済学賞を受賞することとなるが、統合失調症を発症する前は、権威ある賞や職業的威信を極めて貧欲に求めている。プリンストン大学の大学院生時代から、自分の天才を認めてもらいたがる一方、他の数学者を軽蔑、嘲笑するなど、人間的には傍若な性格であったともされている。

フォン・ノイマン(およびモルゲンシュテルン)による『ゲームの理論と経済行動』は、その名声を高め、後の経済学を再構築する試みとなるが、ナッシュは、この本は数学的に革新的だといってもミニマックス定理以外は新しい定理を含んでいないことに忽ち気付き、経済学の理論自体にも顕著な進展をもたらしていないと考えたという。ナッシュは、交渉する二人の人間が合理的であるなら、それぞれが相手にどのように働きかけるかを予測するという斬新なアプローチを試みる。これは公理的アプローチと呼ばれるもので、ナッシュは、このアプローチを初めて社会科学の問題に適用した。

ナッシュはあらゆる解、つまり満足な分配をするのは、どのような合理的条件においてであるかという問いからスタートする。そして四つの条件*2を示し、創意に富んだ数学的論証によってーー自分の示す公理を是認するならーー各プレイヤーの効用最大化を図る解が一意に存在し得ることを明らかにした*3。ある意味でナッシュの功績は、問題を「解く」というより、解が一意に存在することを単純かつ明確に示したことにあると言えるだろう。

ナッシュは、多数のプレイヤーが参加するゲームにも、複数の戦略が許容される限り、少なくとも一つの均衡点が存在することを証明した。均衡という状態について、ナッシュはどのプレイヤーも他の可能な戦略を選択しても自分の立場を改善できない状況と定義している*4。各個人にとっての最善の選択が、社会的に最適な結果をもたらすとは限らない*5。多くの均衡点を持つゲームもあるし、均衡点を一つも持たないゲームもないわけではない。ただし、このようにナッシュの定義を逸脱するのは全く特例的なケースに過ぎない。

ナッシュのゲーム理論における貢献は1950年のランド研究所におけるものが最期であり、その後は幾何学の分野での業績を求め、実代数多様体とコンパクトな可微分多様体の間を関連づける「驚嘆に値する」定理を見出した。

ナッシュの場合、このような発見はたいていかなり早い時期になされ、あとから困難な証明をする、という順序をたどった。彼は、いつも事前に解答を見出し、そこからさかのぼってその正しさを証明するタイプの人間なのだ。一つの問題を思い巡らす。すると、ある時点で直感がひらめき、求めている解のヴィジョンが見えてくる。交渉問題の時もそうだが、この直感はふつうは問題を追究し出すと間もなくひらめく。そのあと一定の論理的手順を踏むという長い苦闘を経て、やがてその直感が正しい、という結論へ到達する。リーマン、ポワンカレ、ウィーナーといったすぐれた数学者たちも、このような方法で考えた。

しかしナッシュはプリンストン大学から講師として招聘されなかった。このことはナッシュに大きな打撃を与える。ノーベル経済学賞受賞の場面もそうだが、本書の素晴らしいところは、こうした選考過程について、関係者からの丹念な聞き取りにもとづき生き生きと描写されているところにある。ナッシュはその後MITから講師として迎えられるが、そこで彼の最も偉大な業績である「コンパクトで滑らかなk次元可微分多様体は、2k+1次元ユークリッド空間に埋め込むことが可能*6である」という定理を証明する。この問題に取り組むにあたり、ナッシュは事前に、その問題が大きな栄光をもたらしてくれるものなのかを十分に確認している。

ここまでがナッシュの栄光についての物語であるとすれば、その後は統合失調症へと至る私的生活と数学上の研究過程についての物語となる。結婚後、ニューヨークのクーラント数学研究所において非線形偏微分方程式の研究を進め、独特の新手法を編み出すことで実績を作り、即座に注目を集める。この時はフィールズ賞受賞の可能性もあったようだが、結果的に、ナッシュの名は最終選考に残ることがなかった。求めるような栄光が得られず、加齢による想像力低下にも恐れを感じる中、いわゆるミレニアム問題の中で最も世に知られた「リーマン予想」に関わるようになる。リーマン予想は、今でも多くの数学者がその人生をかけて取り組み、一生を狂わされかねない巨大な難問であるが、ナッシュもまたこの問題に取り組んだことをきっかけとして、統合失調症への一歩を進めた可能性がある*7
統合失調症の発症からノーベル経済学賞受賞という栄光を得るまでの「失われた歳月」は30年を超える。40歳の頃、ロアノークで独り過ごすナッシュの姿は極めて哀れなものである。息子のチャールズも数学者としてのキャリアをスタートさせるが、父親と同様、統合失調症を発症することとなる。

上述の通り、ノーベル経済学賞の選考過程については丸まる一章を費やし綿密に描写されるが、それだけの価値ある大きなドラマがあったようである。本書には、ナッシュと関係があった人物の思いや動機などが丁寧に描かれており、登場人物も数学者、 物理学者、経済学者の何れをとっても、どこかでその名を聞いたことがあるような一流の人々である。このことが、本書の価値を際立たせ、類書との差別化を可能にしている。
ふと感じるのは、既に世に忘れられた存在であったナッシュが最終的に自ら望んだ栄光を手にすることができた背景には、関係者それぞれの思いがあり、幾人かの人たちがその手を差し伸べてくれたことがあった、ということである。一方で、そうした助けが功を奏せず、時代に埋もれてしまった天才たちの存在もあるのだろう。時代や社会というものの大きさに比べれば、人間の存在などいかに小さなものだろうか。

*1: https://www.weekly-economist.com/2015/06/16/追悼-ゲーム理論の天才-ジョン-ナッシュ氏死去/

*2:正アフィン変換からの独立性、対称性、妥結点のパレート最適性、無関連な代替案からの独立性。

*3:ナッシュ交渉解。

*4:2人ゲームの場合、第2プレイヤーがyをとるなら第1プレイヤーはxを、第1プレイヤーがxをとるなら第2プレイヤーはyをとるのが一番良い戦略となる場合の戦略の組(x、y)がナッシュ均衡となる。

*5:例えば、囚人のジレンマ

*6:当該可微分多様体微分同相な部分多様体 V\subseteq \mathbf{R}^{2k+1}が存在。

*7:一方で、量子論を修正する「計画」を実行に移したことが自分の精神病の引き金となったとするナッシュ自身の発言もあるようである。

真の失業率──2017年6月までのデータによる更新

 完全失業率によって雇用情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発生することで完全失業率が低下し、雇用情勢の悪化を過小評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる方法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

完全失業率(季節調整値)は2.8%と前月より0.3ポイント改善し、前々月と同水準となった。真の失業率は2.7%と前月より0.1ポイント低下した。引き続き、真の失業率は減少基調である。現推計時点において基準年*1である1992年より改善していることとなる。
 ここ数年、女性の労働市場への参入傾向は高く、労働力率を大きく上昇させている。このことは、平均賃金に与える影響と併せ、別途分析する価値がある。

 所定内給与と消費者物価の相関に関する5月までの結果は以下のようになる。賃金、物価ともに概ね先月の水準と変わらない。物価は輸入物価の影響で上昇傾向である一方、賃金は一般労働者の所定内給与への今春闘結果の反映、パートタイム労働者比率の動向如何により、今後の方向性が定まると予測される。

https://www.dropbox.com/s/fixt1abitfo58ee/nbu_ts.csv?dl=0

*1:本推計において完全雇用が達成しているとみなす年。

真の失業率──2017年5月までのデータによる更新

 完全失業率によって雇用情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発生することで完全失業率が低下し、雇用情勢の悪化を過小評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる方法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

完全失業率(季節調整値)は3.1%と前月より0.3ポイント上昇したが、真の失業率は2.8%と前月より0.1ポイント低下した。引き続き、真の失業率は減少基調である。現推計時点において基準年*1である1992年より改善していることとなる。

 所定内給与と消費者物価の相関に関する4月までの結果は以下のようになる。賃金、物価ともに概ね先月の水準と変わらない。物価の上昇傾向に賃金が追い付かず、実質賃金は当面、停滞する可能性が高い。

https://www.dropbox.com/s/fixt1abitfo58ee/nbu_ts.csv?dl=0

*1:本推計において完全雇用が達成しているとみなす年。

真の失業率──2017年4月までのデータによる更新

 完全失業率によって雇用情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発生することで完全失業率が低下し、雇用情勢の悪化を過小評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる方法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。


※過去3カ月分の注記に誤りがあり今月分のグラフから注記を修正しました。

完全失業率(季節調整値)は2.8%と前月と同水準となったが、真の失業率は2.9%と前月より0.2ポイント低下した。引き続き、真の失業率は減少基調である。

 所定内給与と消費者物価の相関に関する3月までの結果は以下のようになる。賃金、物価ともに概ね先月の水準と変わらない。物価の上昇傾向に賃金が追い付かず、実質賃金は当面、停滞する可能性が高い。

https://www.dropbox.com/s/fixt1abitfo58ee/nbu_ts.csv?dl=0

労働生産性と所得の動向(補足)

 前稿で一人当たり名目雇用者報酬(前年比)の寄与度分析を行ったが、これについて以下の2点を修正した。
 第一に、国内総生産を(付加価値法による)生産側国内総生産に統一した。
 第二に、物価の寄与はGDPデフレーターから計算していたが、一人当たり雇用者報酬の実質化を考える上で、このデフレーターを使用することは適切ではない。雇用者報酬の実質化には「家計最終消費デフレーター(除く持ち家の帰属家賃及びFISIM*1)」が用いられており、貨幣の購買力を基準とした雇用者報酬を考える上で、これを用いる方が適切である。ただしこのデフレーターは公表されていないため、これにより近い「家計最終消費デフレーター(除く持ち家の帰属家賃)」を用いることとし、寄与度分析の推計式を以下のように改めた。

 \begin{align*} \frac{w_t-w_{t-1}}{w_{t-1}} = \frac{(p_t-p_{t-1})\cdot d_{t-1}\cdot \alpha_{t-1}}{w_{t-1}} + \frac{(\alpha_t-\alpha_{t-1})\cdot p_{t-1}\cdot d_{t-1}}{w_{t-1}}\\ + \frac{(\bar{d}_t-\bar{d}_{t-1})\cdot g_{t-1}\cdot p_{t-1}\cdot \alpha_{t-1}}{w_{t-1}} + \frac{(g_t-g_{t-1})\cdot \bar{d}_{t-1}\cdot p_{t-1}\cdot \alpha_{t-1}}{w_{t-1}}\\ + \frac{(p_t\cdot d_t-p_{t-1}\cdot p_{t-1})\cdot (\alpha_t-\alpha_{t-1})+(p_t-p_{t-1})\cdot (d_t-d_{t-1})\cdot \alpha_{t-1}}{w_{t-1}}\\ + \frac{(g_t-g_{t-1})\cdot (\bar{d}_{t}-\bar{d}_{t-1})\cdot p_{t-1}\cdot \alpha_{t-1}}{w_{t-1}} \end{align*}

 w :一人当たり雇用者報酬、 p 労働生産性 \alpha 労働分配率 dGDPデフレーター \bar{d} :家計最終消費デフレーター(持ち家の帰属家賃を除く)、 g(= d / \bar{d}) :物価ギャップ)

 この変更により(実質)雇用者報酬に対する物価の寄与を適切に把握できるとともに、GDPデフレーターとのギャップ(物価ギャップ)の寄与が新たに計測される。また上式第6項を交差項に加える。その結果はつぎのようになる。

 まず第一の変更により、足許2015年の労働生産性の寄与はより小さくなる。また物価ギャップを除けば、物価の寄与は小さくなる。すなわち、物価ギャップは実質一人当たり雇用者報酬を高める方向へ働いたことになる。
 一方2014年は物価ギャップがマイナスとなり、物価の寄与は大きくなる(約2.7%)。これは消費税率引き上げのタイミングを考えれば自然である。

 物価ギャップの動きに与える要因については、この見直しを行うにあたって参照した『平成28年版 労働経済白書』では、近年、交易条件が大きな影響を与えているとしている*2

*1:FISIMとは間接的に推計された金融仲介サービスの産出額。SNAでは通常、利息収入は財産所得となり産出額には計上されない。一方、金融仲介を行う金融機関では、金融機関内取引より割高(ないし割安)な金利で利用者にサービスを提供し事業収入を得ているため、この利子の「差分」に当たる額が産出額に計上される。なお、FISIMについては以下も参照:http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20151101/1446361485

*2:http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/16/dl/16-1-2_02.pdf

労働生産性と所得の動向

 ここまで、改定後の国民経済計算(SNA)を用い、制度部門別*1貯蓄投資バランスや、可処分所得から貯蓄、付加価値から可処分所得へのフロー等を確認してきた。その中で明確になったのは、

  • 近年の制度部門別貯蓄投資バランスにおいて特徴的なのは一般政府であり、貯蓄に対する投資超過幅は縮小傾向にある*2
  • 貯蓄の前年差を制度部門別寄与度でみても、近年、一般政府の増加寄与は大きい。この間、一般政府の最終消費は増加しているが、これを上回って可処分所得が増加している。

ということである。これらの分析では、それぞれSNAの資本勘定、所得支出勘定を用いた。本稿では、SNAの体系から所得の源泉をさらに遡り、国内総生産勘定における近年の特徴を確認する。

 国内総生産勘定は、借方に生産側から推計した国内総生産、貸方に支出側から推計した国内総生産を配置し、両者の差額はバランス項目である「統計上の不突合」として借方に置かれる。一般に「国内総生産」(GDP)と呼ばれるのは支出側の国内総生産であり、この額は、財貨・サービスの国内総供給から(各需要先別の)配分比率、運賃・マージン率等をもとに流通段階ごとの需要項目別金額を推計するコモディティフロー法によって推計される。一方、生産側の国内総生産は、経済活動別(産業別)の産出額から中間投入額を控除する付加価値法によって推計され、支出側の国内総生産とは概念的には同一であるものの、推計方法の違いや使用する基礎統計の違いから乖離が生じる。この乖離分が「統計上の不突合」であり、したがって通常使用される「国内総生産」から「統計上の不突合」を減じたものが(付加価値法による)生産側国内総生産となる。
 国内総生産勘定の借方をみると、生産側国内総生産は「雇用者報酬」*3、「営業余剰・混合所得」(純)、「固定資本減耗」、「生産・輸入品に課される税」および控除項目である「補助金」という分配項目によって分割されている。ただしSNAの体系の中には、いわゆる三面等価のうちの分配側国内総生産に係る項目はなく、生産側国内総生産から個別に推計した雇用者報酬、固定資本減耗、生産・輸入品に課される税((控除)補助金)を差し引いたバランス項目が営業余剰・混合所得(純)となる。なお営業余剰・混合所得(純)の制度部門別分割は、別途の方法により行われる。

 以上を踏まえると、(生産側)国内総生産に占める雇用者報酬の割合をみれば、一国全体に付け加えられた付加価値の源泉から家計へ流れたフロー額の概略を確認することができ、これを本稿では「労働分配率」とする*4。なお一人当たりでみた雇用者報酬の増減率は、労働分配率の他、労働生産性および物価によって寄与度に分けることができる*5。本稿では一人当たり実質国内総生産を「労働生産性」とするが、生産側国内総生産の実質値はないため、*6支出側の一人当たり実質国内総生産労働生産性とする。

 まず労働生産性については、就業者ベースの一人当たり値と雇用者ベースの一人当たり値は、当然、その額が異なるが、就業者に占める雇用者比率が上昇し自営業者・家族従業者が減少している近年の傾向から、就業者ベースの方が上昇傾向は強く表れる。ただし何れでみても労働生産性労働分配率は概ね逆相関である。またトレンド要因を除くと労働生産性景気循環と概ね順相関となるのに対し、労働分配率景気循環と概ね逆相関であり、賃金の下方硬直性(ないし「上方硬直性」)という考え方と整合的である。

 また、同様に(生産側)国内総生産に占める生産・輸入品に課される税((控除)補助金)の割合をみれば、一国全体に付け加えられた付加価値の源泉から一般政府へ流れたフロー額の概略を確認することができる。これをみると2013年から直近の2015年にかけ、その割合が大きく上昇している。この間、労働分配率は低下していることから、付加価値の源泉からの家計の取り分が一般政府へ流れた可能性を指摘することができる。

 最後に、一人当たり雇用者報酬(前年比)に対する上述の寄与度分解を実際に行ってみる。具体的な算式はつぎのようになる。

 \begin{align} \frac{w_t-w_{t-1}}{w_{t-1}} = \frac{(p_t-p_{t-1})\cdot d_{t-1}\cdot \alpha_{t-1}}{w_{t-1}} + \frac{(\alpha_t-\alpha_{t-1})\cdot p_{t-1}\cdot d_{t-1}}{w_{t-1}}\ + \frac{(d_t-d_{t-1})\cdot p_{t-1}\cdot \alpha_{t-1}}{w_{t-1}}\\ + \frac{(p_t\cdot d_t-p_{t-1}\cdot p_{t-1})\cdot (\alpha_t-\alpha_{t-1})+(p_t-p_{t-1})\cdot (d_t-d_{t-1})}{w_{t-1}} \end{align}
 w:一人当たり雇用者報酬、 p労働生産性 \alpha労働分配率 dGDPデフレーター

ただし全体の整合性を確保するため、労働分配率は支出側の実質国内総生産を分母とし、「一人当たり」は雇用者ベースに統一する。また、右辺第4項は交差項とする。

結果をみると、概ね労働生産性労働分配率の寄与度は反対方向を向く。ただし通常とは異なる動きを示す時期もあり、1997年や2005年、2014年など景気循環の変わり目では同一方向を向く場合がある。また景気の拡張傾向が強めに現れた2005年から2006年、あるいは2014年以降において労働生産性の寄与は意外にも小さく、特に足許の2014年以降は一人当たり雇用者報酬の上昇分はほぼ物価上昇分によって語ることができる。雇用情勢はこの間堅調に推移しているが、必ずしも労働生産性は高まっておらず、雇用の増加はむしろ一国全体の労働生産性を弱めた可能性がある。今般の雇用の増加は、産業別には医療・福祉を中心とするサービス産業、性別には女性が主体となるものであり、こうした事実は、資本装備率が低下することで労働生産性を弱め、結果的に一人当たり雇用者報酬を実質的には減少させた可能性とも整合的に理解できる。
 加えて政府部門からの「巻き戻し」は労働分配率を低下させ、このことも一人当たり雇用者報酬の実質的な減少につながっている。この物価動向と逆転した労働分配率の動きは、前稿までで確認したマクロ経済政策の不整合性に関係する。

 これだけを判断材料とすれば、雇用者数の増加は労働生産性を引き下げ、一人当たり雇用者報酬の実質的な減少を通じて消費をも引き下げているように思われるかも知れない。しかし一方で、全期間を対象とした回帰分析から、雇用者数は民間最終消費支出と順相関的な関係があることがわかる。この関係性は労働生産性についても同様である。一方、労働分配率は民間最終消費支出との間に相関関係がみられず、GDPデフレーターは通常の想定(物価下落から消費増加へ)とは異なり順相関の関係となる*7

以上の分析から、極めてありきたりな言い振りではあるが、労働生産性を高めていくと同時に雇用の改善を図ることが重要であり、その結果として消費が増加し、持続的な経済成長と生活水準の実質的な向上が図られる、とのまとめになるだろう。またこの分析から、完全失業率が極めて低水準ながら一人当たり賃金が増加しない近年のパラドックスの一因を垣間見ることができる。男性中高年の賃金が停滞するという賃金構造上の動きが直近の統計にはみられるが*8、このことは、上述の労働生産性(ないし資本装備率)の動きにも関係していると想定される。この関係を繋ぐことが今後の分析課題となる。

*1:SNA上の制度部門は非金融法人企業、金融機関、一般政府、家計(個人企業を含む)、対家計民間非営利団体の5部門からなり、これらの合計が一国経済となる。

*2:このことは、一般政府のプライマリーバランスが改善傾向であることを意味する。

*3:国内総生産勘定の「雇用者報酬」は国内ベースであり、前稿の分析で使用した所得支出勘定の「雇用者報酬」とは海外からの所得の純受取分だけ違いが生じる。また、雇用者報酬および財産所得に係る海外からの所得の純受取分を(支出側)国内総生産に加えたものが「国民総所得」(GNI)となる。

*4:通常使用される「労働分配率」は、国民所得(要素費用表示)に占める雇用者報酬(国民ベース)の割合である。なお、要素費用表示による国民所得は、雇用者報酬(国民ベース)、財産所得(国民ベース)の純受取分、営業余剰・混合所得(純)の合計額(第1次所得バランス)から、生産・輸入品に課される税((控除)補助金)を差し引いた額に一致する。

*5:寄与度は因果関係を示すわけではない。例えば、物価には雇用者報酬が先行している可能性がある(http://www5.cao.go.jp/keizai3/shihyo/2017/0327/1166.html)。

*6:事実誤認がありましたので修正しました。生産側国内総生産の実質値は「主要統計表(3)」に記載があります。

*7:ただしGDPデフレーターのみを独立変数変数とすると、相関関係は消滅する。

*8:http://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/chingin/kouzou/z2016/index.html

真の失業率──2017年3月までのデータによる更新

 完全失業率によって雇用情勢を判断する場合、不況時に 就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発生することで、完全失業率が低下し、雇用情勢の悪化を過小評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる方法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

完全失業率(季節調整値)は2.8%と前月と同水準、真の失業率も3.1%と前月と同水準となった。ただし、傾向としては引き続き、真の失業率は減少基調である。

 所定内給与と消費者物価の相関に関する2月までの結果は以下のようになる。賃金、物価ともに概ね先月の水準と変わらない。物価の上昇傾向に賃金が追い付かず、実質賃金は当面、停滞する可能性が高い。

https://www.dropbox.com/s/fixt1abitfo58ee/nbu_ts.csv?dl=0