ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

柄谷行人「世界共和国へ−資本=ネーション=国家を超えて」

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

コメント 「柄谷史観」とでも言うべき理論が展開される書。最初は、その理論展開の鮮やかさに唯々圧倒される。
 まず、社会を規定する構造が「交換様式」という観点からカテゴライズされる。ここでは、原始社会の「互酬」や市場経済の「商品交換」と同様に、国家も「略取−再分配」に関わり、交換様式の1つとしてあるとされる。国家やネーションは、イデオロギーや表象のようなものではなく、基礎的な交換諸様式の変形・接合によって形成されている。しかしながら、国家はそれ自体、自立性をもって存在するものでもある。それは、国家は共同体の中から発生するものではなく、一つの共同体が他の共同体を継続的に支配する形態であり、その基盤が暴力的収奪にあるという国家の有り様、つまり、国家は「外」の国家に対して存在する、という視点を持つことから明らかとなる。また、資本主義的な社会構成体は、資本=ネーション=国家という結合体としてあり、階級対立や諸矛盾を超えて「想像的な」共同性をもたらすのである。
 国家の自立性と伴に、資本主義経済にも容易に乗り越えがたい自立性がある。商人資本が空間的な価値体系の差異から剰余価値を得るのに対して、産業資本は、生産過程において労働者を搾取することによって剰余価値を得る、ということをマルクス主義者は強調する。しかし、それはまだ剰余価値の「実現」ではない。それは、技術革新・新商品開発によって、価値体系を時間的に差異化することにより実現されるのである。このように、産業資本は、自らが存続するために技術革新を運命づけられている。さらに、剰余価値は、労働者が消費者となり生産物を購入することによって実現され、労働者は労働力商品を再生産する、というような自己再生的なシステムが形成されているのである。
 このように、国家(資本・ネーション)は、アナキストの考えるように「真の社会」が実現された時点において(容易に)消滅するようなものではない。それは「外」に対して自立的に存在する「想像的な」共同体であり、容易に乗り超え得るものではない。しかし、何故それは乗り超えられる必要があり、国家は揚棄されなければならないのか。本書では、①戦争、②環境破壊、③経済的格差、の3つをその理由として挙げる。しかし、稲葉、立岩「所有と国家のゆくえ」における議論を経過している今、資本主義が揚棄され、経済の成長過程から切り離された場合には「環境負荷低減型の新技術開発」も困難となるであろうし、経済の停滞は、ある定常的な状態に経済を収斂させることはなく、スパイラル的な富の縮小を生じさせることが予測される。つまり、少なくとも②の理由には(或いは③についても)、大きな疑問符が付くことになる。
 さらに①と③を考える上でも、より実現可能な選択肢があるように思われるのだ。その前に、それまで鮮やかに展開された柄谷理論が、アソシエーショニズムとそこにおける「交換様式X」を語る頃から、ある種の「哀しみ」を垣間見せるようになることに触れておく必要がある。
 柄谷氏は、カントの構想を基に、社会主義(アソシエーショニズム)とは互酬的交換を高次元で取り返すことにあり、分配的正義に拠るのではなく、そもそも富の格差が生じないような交換システムを実現するものであるとする。また、それは「理性の統整的利用」、つまりは、無限に遠いものであろうと、人がそれに近づこうと努めるようなものであるとする。このようなアソシエーショニズムの捉えがたい曖昧さは、ある種の「哀しみ」を漂わせるものであるが、しかしながら、次のプルードンの構想を述べるところで何故かそれが明確になり、「それは生産者協同組合です」と断言される。しかしいずれにしても、生産者協同組合において基礎となる「交換様式X」の実体は捉え難く、資本主義経済を乗り超え、それが自立的な交換様式として可能になる、実現され得るとは、到底思われないのである。
 では、より実現可能な選択肢は何か。オルタナティブとしては、「平和で拡張的な市場経済」の実現にあると思われる。先のエントリーにおける文章をここで繰り返す。

 但し、ここには一つの前提がある。不況下においては、働く場がない、努力のしようがない、という状況が、通常の環境下においても生じることになり、(本来、お呼びでないはずの)責任ある主体としての国家が常に要請される。一方、完全雇用下においては、通常は(ある限界的な部分を除けば)、責任ある主体としての国家は要請されず、保険制度としての国家だけが要請される。

 つまり、「平和で拡張的な市場経済」が実現されると、意図せずとも、国家は結果的に「揚棄」される方向へと向かうのではないか。経済的格差は、市場経済の下では避けがたい現実であるとしても、経済的弱者の「下割れ」のような事態は避けることが出来るだろう。このようにして「小さな政府」は実現されるのではないか。
 柄谷行人氏の著作については、「内省と遡行」「探究」等から始まり、10数年来読んでいるのだが、もはや柄谷理論は「揚棄」されるべき時点に来ているのかも知れない。