ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

アニエス・ヴァルダ『幸福』と山田洋次『幸せの黄色いハンカチ』

※以前削除したエントリーのサルベージ・データを加筆・修正したものです。

幸福 [DVD]

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 アニエス・ヴァルダに『幸福』という名の映画がある。ひまわりの黄色と流れるモーツァルトの音楽、原色の鮮やかな色彩が映画の冒頭から強い印象をみる者に与える。幸福と題されるように、美しい自然の風景と柔和な笑みに満ちた家族や人間関係が現れる。自然の美しさと均衡のとれた人間関係は、幸福にとって必須なものであるかのようである。安定、ときに退屈を感じさせるような仕事と愛情、花嫁、人形のような子供たち──
 しかしここにある〈幸福〉は、さらにおおくの〈幸福〉を求め続けなければならないという人間の習性の中で、その均衡がかろうじて維持されていたにすぎない。満ち足りた生活の中にあったフランソワは、偶然に受付の娘エミリと出会い、ふたりは引かれ合い、愛するようになる。この愛は、妻テレーズとふたりの子をもつフランソワの周囲にある均衡に過剰な〈幸福〉を追加する。
 フランソワはテレーズにエミリのことを、自分の〈幸せ〉を、そしてそれがいま二つになった喜びを素直に話す。

「悲しむことじゃないさ。僕たちは、区切られたリンゴ畑の中にいる。でも、畑の外にもリンゴはある。その木も、同じように実を作り、増えて、一緒になる。話が分かるかい?」

 フランソワの素直さ、一途さ、自分はあくまで自分だというエゴにはむしろ無垢なものを感じさせる。しかし過剰な〈幸福〉はあくまで過剰なものでしかなく、その状態はいずれつぎの均衡へと収斂されることになる。話を聞いた妻テレーズは、一度はフランソワの〈幸福〉を受け入れるものの、その直後に謎の溺死を遂げる。葬儀を終え、悲しみを乗り越えたフランソワはエミリと結婚し、同じ子どもたちとまた同じような日常がくり返されることになる。反復するように最後に現れるピクニックの映像は、もちろん当初の家族の姿そのものではないが、それらの家族の姿の間に本質的な違いを見分けることはできない。
 フランソワとその子供たちの喪失感は、日常の継続によっていつか消え去ってしまうものなのだろう。最後に現れた映像はそのことを意識させるに十分なものだ。こうして妻あるいは母親というかけがえのない存在はひとつの「もの」に置き換えられる。喪失の悲しみは代わりの存在によって乗り越えられる。この〈幸福〉とは、特別な唯一の存在(単独性)と関係するものではない。特別な存在とのつながりを忘却し日常を生きる人間の、その「日常」そのものを表している。
 我々は過ぎ去る時間の中で、知らず知らずのうちに心の中にあるかけがえのない存在をいつの間にか「殺して」いる。そうした「殺し」によって〈幸福〉を回復することが日常を生きることの意味でもある。かように〈幸福〉の裏側にはおおくの忘れられた存在が潜んでいる。フランソワの言葉は、人間は〈幸福〉を追い求めることができる、そうあるべきだ、ということを強く主張するものであるようにみえる。ところがそれは誰かの犠牲によってはじめて追い求めることが可能であるものでもある。あるいは、そのような〈幸福〉はあくまで括弧付きの幸福である。

 ヴァルダは日常という括弧付きの幸福を描くことで、単独性の意味をむしろはっきりと印象づけている。ところが日本の映画では、日常は〈非日常〉に、単独性は陳腐な〈きずな〉におきかわる。『家族』によって高度経済成長期の日本を「見事に切開」してみせた山田洋次は、1977年の映画『幸せの黄色いハンカチ』でその陳腐な〈きずな〉を描くことになる。

幸福の黄色いハンカチ [DVD]

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 夕張の炭鉱労働者であった勇作は、スーパーのレジ係として働く光枝と結婚し幸せな生活を送る。妊娠の兆候を感じた光枝は、もし妊娠が本当だったら竿の先に黄色いハンカチをあげておく、という言葉を勇作に送る。仕事から帰った勇作ははためく黄色いハンカチをみて喜ぶが、結局、光枝はその後流産してしまう。やけになった勇作は喧嘩で相手を殺してしまい、刑務所に入ることになる。勇作は、若い光枝にほかの男と一緒になるべきことをほのめかしつつ、もしひとりで待っていてくれるなら竿の先に黄色いハンカチをあげておいてくれ、と約束する。6年間の刑期を終え刑務所を出た勇作の気持ちは揺れるが、旅で出会った欽也と朱美に励まされつつ夕張に向かい、はためく何枚もの黄色いハンカチをみつけることになる。
 炭鉱労働者のリアルさを勇作を演じる高倉健から感じ取ることはできない。すべてが陳腐で、非日常的な物語である。勇作と光枝の時間を超えた〈きずな〉にもかけがえのないものというような関係性を感じることはできない。ここにある〈幸福〉は規範的なものであり、幸福のあるべき姿、ロール・モデルを主張しているかのようである。しかしその結果、実体のともなわない〈幸福な物語〉という風景に化してしまっている。こういったものが日本人にとっての幸福なのだろうか。

 そもそも人と人との関係には何らかの単独性が介在しているようにも思われる。単独性が介在する関係によって、社会(共同体)は成立する。しかし対立する民族と民族の間には、このような意味での社会はあり得ない。そしてそれが先鋭化するところに民族浄化のような悲劇が生じる。
 単独性のない、偶然性や非対称性が抹消された場における関係は、ときに人間にこのような思想を持たせることになる。人とは交換可能なもので、ある評価基準によって比較することができる「もの」となる。唯一的な、偶然の関係とよべるものはそこにはない。現代の市場経済に生きる生活者は、そうした場で、日常的に他者を比較し、他者と自らとの比較の中で生き続けている。