備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

ジグムント・バウマン「幸福論 “生きづらい”時代の社会学」

幸福論――“生きづらい”時代の社会学

幸福論――“生きづらい”時代の社会学

 ジグムント・バウマンは、現代の消費生活と幸福との関係について、さまざまな領域の議論を踏まえながら検討を進めていく。 人間の幸福に重要なもののすべてが市場化されているわけではなく、消費の数量的な拡大がわれわれの幸福を適切に示すという見方は、たいてい、間違いをおかすものである。あるいは、そうした見方は、むしろ幸福の追求という機会を逃す結果にもつながるともいえる。 バウマンは、現代社会の特徴を「リキッド・モダン」という言葉によって表現している。現代社会では、人間の行動やライフスタイルは、権威を持つ何らかの主体によって承認された、確固としたかたちをとるものではない。リキッド・モダンは、われわれに、アイデンティティを「再加工」したり、「再利用」することを要求するので、われわれはそれに応えなければならない。
 リキッド・モダンというこの現代社会の特徴は、旺盛な消費によって、需要が持続的に高まっていくような成長経済にこそ備わるものであり、あるいは、それによってもたらされるものだともいえるだろう。そのような経済において、消費がバブル的な様相を示すことになれば、消費の目的は「待ち望んでいた購入後の喜びから、買い物を加速させる行動へと変化」することになる。

消費社会において、すべての結びつきやつながりは、買い手と商品の関係にパターン化できる。つまり、商品はその輝きをひとたび失うと、そこにいることを望まれなくなり、その舞台から立ち去らなければならなくなる。その一方で、買い手も家に持ち帰った商品に永遠の愛を誓い、そこにあることを永遠の権利として求めることを期待しないし、望んでいない。消費主義的関係はその初めから、「当分の間」である。

 消費は終わることのない永久運動となり、人間は、消費によってつかの間の幸福を手に入れ、それをくり返すことになる。

 バウマンは、幸福によって解き放たれる欲望は、「求心力または遠心力」という二つのかたちをとるという。これは、わたし自身のやすらぎとともに、他者のやすらぎにも配慮することを意味し、これらは相対立することなく、みずからの幸福へとつながる。そして二つの幸福探しのための戦略の枠組みをそれぞれフリードリヒ・ニーチェエマニュエル・レヴィナスに代弁させる。一方の極が「自我への配慮、自我の高揚、そして全体としては自己言及的な関心のプログラム」を示すのに対し、もう一方の極は、「他者への配慮と関心の展望──そして「〜のためにあることの幸福」──」を提供しようとする。
 ニーチェにとって、幸福は各人にあるものであるが、それぞれの幸福は同じものではない。高貴な者にとって、健全かつ神聖な利己主義は幸福であるが、ほかの者たちが得るのは単なる不幸の回避としての「幸福」でしかなく、それはみずからの凡庸さを受け入れ、成功する見込みのない活動を止めることを意味する。さもなくば、嫉妬や羨望などの負の感情によって、高貴な者に対する反感(ルサンチマン)を持つようになるだろう。リキッド・モダンという時代において、消費生活者は高みに立って「小さな人間たち」を蔑み、また、ニーチェを引用することでポリティカルにはインコレクトであるとの批判を回避する。しかし、バウマンのいうこの消費生活者たちは、同時に、自己欺瞞の罠に陥った存在でもあるのかも知れない。
 一方、レヴィナスの研究において焦点となるのは責任である。「他者のためにあるがゆえに、わたしは存在し」、「「存在」は、「他者のための存在」と同義」となる。この責任は、取引や契約ではなく、おのれ自身の選択である。他者への隷属であり、孤独と自己愛的な執着からの出口でもある『存在するのとは別のやり方で』を選択することが、幸福を追求するなかで直面するものとなる。レヴィナスにとっての主体とは、つねに他者の〈顔〉によって〈告発〉されるものであり、他者と相互に対称的な存在としてあるわけではない。責任とは、他者に〈告発〉されることを認め、自己にとっての他者の重要性を認めることである。
 このような、幸福を追求するための二つの導きの糸、補助線について言及した後、バウマンは、何が人生を幸福にするのかはっきりわかるようになるには、手さぐりで明かりを探さなければならないというセネカの言葉をくり返し、そのことが「人生という芸術/技法」(art of life)なのだという。

 リキッド・モダンという成長経済のもとでの消費社会とは異なり、定常的な世界となった1990年代の日本では、生活者の満足は急激に低下する。限られた需要をめぐり企業が競争することで、物価は低下し、所得は停滞する。こうした中で、貨幣愛と勤勉さという「デフレ心性」がみいだされるようになり、同時にそれは、状況をより悪化させ、ますますその心性を強めていくことになる。完全失業率は高まり、人と人とのきずなは弱まり、それにともなって、自らのアイデンティティが喪失するかも知れないという不安にかき立てられる。商品を追い求める無限運動は、貨幣を、あるいは仕事を求めるそれに変わり、より勤勉であることが美徳となる。こうして、デフレ心性は強化され、人間の精神をしだいに抑圧するものとなるだろう。

(以下省略)