ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

大学に価値はあるか?

 前回のエントリーで取り上げた濱口桂一郎『若者と労働』では、就活において「人間力」が重視されること、あるいは仕事の経験がない若者が「自己分析」など心理学的ツールを頼ることについて、日本における「教育と職業の密接な無関係」という文脈から説明を講じている。「社員」としてのメンバーシップに入ることを目的とする日本の就活、特に文系大学生の就活では、学校教育における教育の中身はほとんど考慮されない。大学のレヴェルは、学生の能力を証明する基準として、すなわちシグナルとしての意味合いを持つが、教育の中身は、就職に役立つものとはなっていない。この文脈から考えると、大学教育とは、壮大な無駄だということになる。
 このような見方には、確かに「一理ある」と感じるところもある。ではなぜ日本においては、このような壮大な無駄がなんの社会的批判もなくこれまで生き残ることができたのか。このことについて著者は、「日本的雇用慣行」という言葉の意味するものを超えた、より広範な意味における日本の「社会システム」から答えを導こうとしている。すなわち、こういうことである。日本ではこれまで、長期雇用と年功的な賃金制度という伝統的な雇用慣行の中で、親が子供の学費を支払うことは「当たり前の前提」とみなされてきた。教育費を「親の生活給でまかなう仕組みが社会的に確立していた」のである。
 このような雇用システム観に立つと、企業は労働者に対して、労働の対価としての賃金以上のものを支払っているとみなせることにもなる。つまり賃金とは、労働に対する対価として支払われるだけではなく、労働者が次の世代を育成するという「労働力の再生産」のための対価としても支払われている、ということである。しかし、大学教育がその後の職業を通じて技能を発揮させることにつながらなければ、企業にとって、その分の費用は「労働力の再生産」のための対価ですらなく、嗜好品を無駄に消費させるだけのコストとなる。
 欧米のようなジョブ型社会では、教育費は公的な支出となるため、大学教育は公共財としての意味を持つことが求められる。著者は、日本では、教育費を親が支払う仕組みが確立していたため、大学教育が消費財のように認識されることになり、結果的に、職業的意義の乏しい大学教育が温存されることにつながったとみている。

 こうした大学教育をめぐる著者の視点には、異論を向けることも可能である。日本でも、教育研究条件の維持向上、修学上の経済的負担の軽減等を目的とした大学への助成が国によって行われており、一部ではあるが、日本でも公的な支出は行われている。もしそれが無駄であるとするならば、欧米社会と同じように、社会的な批判にさらされることになる。また、上記のような社会システム観に立つと、助成の有無にかかわらず、無駄な大学教育に対する企業からの批判は避けられない。
 さらにいうと、いわゆる「マージナル大学」*1については、そもそもシグナルとしての意義すら薄く、教育そのものに価値がないとするならば、「教員を食わせるために学生が存在する」といわれても致し方ないことにすらなる。むしろ、そうした大学であっても存在し得ているということ自体、大学教育には何らかの価値があり、親や学生が、そこで学ぶことを合理的に選択した結果であるというべきなのではないか──

 近年、大学進学率は急激に上昇しており、今や四年制大学への進学者だけで卒業者の5割を占めるまでになっている。もし大学の意義が就活の際のシグナルでしかなく、大学教育に職業的意義は全くなく、それに費用をかけることが壮大な無駄だとするならば、近年の進学率の上昇は「大学生が多すぎる」状態を生み出し、学歴間の賃金格差を縮小させることにつながるはずである。
 現実がどうなっているかについては経済学者によって実証されており、それによると、米国では賃金格差は過去20年において拡大を続けており、その要因は学歴間の格差でほとんど説明できる一方、日本では賃金格差はほとんど拡大していないとのことである*2。米国では大卒者の供給制約によって学歴間の賃金格差が広がったが、日本では大卒者の供給が増えたことで供給制約は生じず、賃金格差は維持されたとの結論となろう。
 この結論から導かれるストーリーとしては、高卒レヴェルの技術・能力では現代の企業が要求する水準をクリアすることができず、社会の要求にしたがって大卒者が増加したということになる。かつては、高卒者の就職決定率が悪化し、その結果として進学率が上昇したようにみられる時代もあったが、このストーリーから連想すると、高卒者の就職決定率が悪化したことの主因は現代の企業の要求する技術・能力のレヴェルが高まったためであり、高卒者の求人が少なくなるのは構造的な変化によるものだということになる。

 現実を確認するため、秋田県の新規高卒者の就職状況に関するデータを拾ってみることにする。データは、下記のサイトからPDFファイルで、過去にさかのぼってみることができる。

・平成25年3月新規高卒者職業紹介状況(平成25年6月末現在)
http://akita-roudoukyoku.jsite.mhlw.go.jp/news_topics/houdou/_117214/_119588.html
・平成25年3月新規高卒者職業紹介状況(平成25年3月末現在)
http://akita-roudoukyoku.jsite.mhlw.go.jp/news_topics/houdou/_103554/_115111.html

 まず、各年6月末時点の求人数をみると、長期的には、この20数年間に大きく減少しており、足許では1990年代前半と比較して5分の1以下である。このような大幅な求人数の圧縮は、労働需要面において、高卒者へのニーズが構造的に縮小したことを示すに十分なものであると思われる。すなわち、進学率の上昇は必ずしも「多すぎる大卒者」をもたらしたわけではないとの説を、別の観点から補強している。
 しかし同時に、進学率の上昇や少子化が進展しており、新規高卒者の中の求職者の数をしだいに縮小させている。求人数は減少しているものの、その一部には景気循環的な側面による変動も含まれており、平成22年3月卒を境に求人数は増加に転じ、直近の数字では、求人数は求職者数を上回っている。

 つぎに、各年6月末時点の就職未決定者の数と、3月から6月にかけて求職者から退出した者の数をみることにする。後者については、卒業後6月までに就職をあきらめ進学等に切り替えた者の数と考えることができる。
 就職未決定者については、各年の就職環境の厳しさがそのまま表れており、特に2002〜03年の就職氷河期における就職未決定者数はとびぬけて大きい。また、リーマン・ショック後の2009〜11年においても就職未決定者数が多くなる。ところがその後、その数は数人程度まで減少し、この2年間は就職希望者のほぼ全員が就職できるような状況となっている。
 また、求職者からの退出者数は、総じて就職未決定者数の数よりも多く、就職環境が厳しいときには極端に増加する。つまり、高卒就職環境が厳しくなると進学者が増加するという経路も確実に存在している。加えて注目されるのは、求職者からの退出者数は、現在もそれなりには存在しているものの、1993年3月卒以降でみれば、ここ数年はかつてないほどの低い水準となっていることである。その背景としては、就職を希望する新卒者を就職させるさまざまな仕組みが備わってきていることのほか、進学することのメリットが少なくなる中で、就職が可能な場合は就職を望むケースが増えていることもあると考えられる。

 以上を整理すると、つぎのようになる。必要な技術・能力の変化にともなう労働需要面の変化により、高卒求人数が減少し進学率が上昇するという事実は、長期的にみればありそうであり、大学教育が壮大な無駄であると言い切ることはできない。また、「大学生が多すぎる」という状態も、いまのところは生じてはいない。
 ところが、リーマン・ショック後の数年間をみる限り、今後は、むしろ労働需要に応じ高卒求職者を供給することは不可能な状況になりつつある。親が子供の学費を支払うような現在のシステムが維持されると、企業にとっては、需要に見合う労働力を確保することが困難になる。このままでは、職業的意義を持たない大学教育は、結果としてその原資を支払うことになる企業側から強い批判にさらされることになるだろう*3。また高卒者の確保が困難になれば、採用時の賃金は引き上げられ、長期的には、学歴間の賃金格差が縮小する方向に向かう。現在の状況がどうあれ、いずれは大学教育の「収益性」を高めるような方向での改革が必要であり、さもなくば、早晩「食わせてもらう」ことはできなくなると、大学教育に関係する者は理解すべきであろう。

*1:居神浩『ノンエリート大学生に伝えるべきこと─「マージナル大学」の社会的意義』(日本労働研究雑誌 2010.9)参照。

*2:id:roumuya氏によるRIETIシンポジウムの記事を参照(http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20130909#p1)。

*3:ただし、労働の生産性が十分に高いものであり、子供に対し、大学教育のような贅沢な余暇を消費させるに十分なほどの豊かさが実現されているのであれば、こうした批判は当たらないことになる。この点は、何らかの形での実証を必要とする。