備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

内橋克人編「経済学は誰のためにあるのか 市場原理至上主義批判」

経済学は誰のためにあるのか―市場原理至上主義批判

経済学は誰のためにあるのか―市場原理至上主義批判

コメント 内橋克人氏による主に「異端派」(?)の経済学者との対談本。95〜97年頃のもので、その間(度重なる財政出動の甲斐もあり)例外的に景気が良かった時期を挿んではいるが、雇用情勢は厳しくその後のマイナス成長を招来させた時期でもある。この時期、本書の内橋氏の議論にあるように、確かに政策論議の中では、過度に自由な市場経済の完全さを信奉する規制緩和論が隆盛を極めたような記憶がある。*1また、このような経済論議は、経団連に主導され大企業に特に有利に作用するものであり、労働者(=消費者)を置き去りにするものである、との主張もあながち否定されるべきものとも言えないだろう。*2確かに、未だ総需要の回復が望めない不況期においては、規制緩和等によりサプライ・サイドの効率性を高めることは、むしろ失業や格差の拡大をもたらす可能性が高い。その意味で、マクロ経済の安定化を主張することには大いに首肯するものの、内橋氏の主張はあまりにも規制緩和のみを問題視し過ぎるきらいがある。
 ただし、対談相手の議論には興味深いものもある。

  • 新古典派経済学全般というよりも、)フリードマン、スティグラーに始まるシカゴ派経済学に対する批判、中央集権的な手法で地域の「社会的共通資本」が破壊されることへの批判(宇沢弘文氏)
  • 一般均衡の陰に隠れたスラックの存在を忘れてはいけない、地域の「パパ・ママ・ストア」の存在など価格だけではなく品質にも着目すれば市場において一定の需要を確保できることも有り得る、また、外部不経済にも目を向けるべき(岸本重陳氏)
  • 歴史主義的経済学、政治経済学の復興が必要、経済学は必ずしもイデオロギー・フリーというわけではない(佐和隆光氏)
  • 現在(当時)の規制緩和論の眼目は「公共の企業化」であり、本来、街づくりなどで目指すべきは、コモンズの営みにみられるような「公共性の領域」を考えること、しかしながら、「公共性の領域」はあくまで自律的な個人を基礎とするものであり、ベタな共同体主義とは異なるものである(間宮陽介氏)
  • 社会を変えるときには、今まで構築してきた人間関係を重視しながら、一つ一つ新しいものを少しずつ付け加えていく、という考え方で望むことが必要、社会や生活領域を見据えた漸進的改善を提起する議論が必要(杉浦克己氏)
  • 我が国の賃金水準が国際的に高く、労働コストが日本企業の競争力を奪っているとの議論には疑問、日本の労働に対する規制は(政府による規制だけでなく、労働協約によるものも含め)全体的にみて弱い(熊沢誠氏)

等々。全体に通底して感じられるのは、①企業、②政府、とは異なる第3のアクターへの期待である。また、リサイクル型の社会、環境との調和等が、効率性だけを志向することへのオルタナティブとして取り上げられる。*3こうした議論をフィージビリティがあり将来に期待の持てるような形に仕上げていくという作業は、恐らく今後の課題なのであろう。
 しかしながらどうしても目につくのは、輸入学問としての経済学批判(西川潤氏等)、日本の失業者は増えた方が労働規制のスタンダードへの意識が芽生えるとの熊沢氏の発言、あとがきでの内橋氏のモータリゼーション批判等であり、こうした議論には眉をひそめざるを得ない。

*1:その背景には、財政に制約が掛かり経済構造の改革によって景気の浮上を目指す政策を形成する必要に迫られた政府の意向もあったと思われる。

*2:そのような主張を正当化する上で利用されたのが、「国際競争力」なる概念であったと言える。

*3:このような方向性は、長期的には結果として低成長志向に繋がると思われるが、当時から現在までの経済情勢を考えれば、むしろ金融政策を中心としたマクロ経済政策により高い成長を目指すことが重要である。ただし、潜在成長率水準が安定的に実現された段階において、社会システムがこのような方向性を目指して漸進的に変化していくべきとの考えには(それが競争制約的な規制を求めるものでない限り)共鳴を感じる。そこから先さらに潜在成長率を高めるため、再配分の仕組みを変えたり過度に規制緩和を進めることについては、総需要を置き去りにし、サプライ・サイドのみを重視しているという観点から、最近においても若干疑問を感じざるを得ない議論が罷り通っているような気がする。