- 作者: 今村仁司
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1998/10/20
- メディア: 新書
- 購入: 9人 クリック: 222回
- この商品を含むブログ (25件) を見る
今村仁司は、近代の労働観を古代のそれを転倒する形で生じたものとみる。 古代の労働観では、手仕事などの肉体的行為、職人的な、あるいは芸術家の制作までが格の低い行為とされ、モノを作ることではなく、モノを使うことが価値の高い、格の高い行為とみなされた。近代以前は、余暇の、自由時間の文明である。余暇による無為は、公共的世界(議会などの討論の場)を生み、その中で活動的に生きることが価値のあるものとされる。一方、労働は、宗教的、道徳的な評価によって支えられた。
しかし、近代の産業社会は、時間に服従して行動する「機械的身体」を必要とする。これを用意したのがプロテスタンティズムの職業倫理、そして強制的禁欲政策と救貧院制度等の国家による社会政策である。一方では、ブルジョア階層における自己規制的な職業労働が確立し、もう一方では、救貧制度が怠惰な人間を収容所に監禁し、強制労働を通じた禁欲的生活を学習させることによって、下層労働者の労働心性を近代化した。今村は、この強制労働と強制禁欲によって民衆の身体を変換させることなしには『近代資本主義はとうてい再生産軌道に乗ることはできなかったであろう』とみる。
また、強制労働は「労働の喜び」論という主張を生み、これが後に、強制なき共同労働の「喜び」を期待する社会主義思想を生む。しかし実際には、「労働の喜び」は内在的に湧き上がるものではなく、他人の承認欲求をよりどころとしたものである。承認欲望のメカニズムには、つぎのような三つのタイプがあるとする。
(1)下位の他人からの承認によって自分が「偉い」と感じること。現実的な下位の他人がいない場合には、決して下位でも劣等でもない他人に対して「下位の他人」というレッテルを貼る。これは、異質なものの排除という力学につながる。
(2)同等者としての他人による承認。これは、企業の生産目標の達成のため、競争が支援・強制されることもある。これはときに、労働の成果、出来映えを争点とした「労働ポトラッチ」によって、上位の威信、権威を獲得するための際限なき競争を生む。
(3)上位の他人からの承認。この場合、自分から率先して上位の他人(上司など)に服従することになる。
労働の内在的な喜びは虚構であり、その価値は、その社会的な評価の中にある。労働の質や仕事の内容に関係なく、「ブランド」、「名声」が重視され、その結果によって上司や同僚から評価されることがその動機となるのである。近代の労働観では、労働は、「顕示的消費」(ウェブレン)の対象である。*1
近代は労働の文明であり、万人は必然的労働に拘束され、労働における勤勉さはまた倫理ともなる。必然的労働が生活のすべてを包摂し、無為と自由な時間は消滅し、それによって公共的空間、言説による共同の事物の思考と討議はしだいに成り立たなくなる。すべてが労働となることは、万人が奴隷的になることである。労働の中の「自由」とは、自発的隷属別の言い回しに過ぎない。
こうして今村は、『多忙と増殖の原理』である勤勉労働の時間を可能な限り縮小する必要があり、「よさと正しさ」を考える余裕としての自由な時間を創造しなくてはならないという結論に行き着く。
禁欲と勤勉という心性/ベーシック・インカムの核心
今村は、近代の労働文明における禁欲と勤勉という心性を乗り越えることを提起する。近代の労働文明がそれを望むことはないだろうが、現実には、労働時間は、時代を経るにしたがい減少している。禁欲と勤勉を乗り越えることの目的とされるのは、「公共性」の回復である。
しかし、禁欲と勤勉という心性を乗り越える道義性に関しては、今村とは異なる別の視点もあるかも知れない。まだ生煮えながらいま考えを進めているのは、「勤勉さ」は「貨幣愛」と相まって、経済を累積的な物価と所得の低下へと陥れるものなのかも知れない、ということである。また、日本人がそれを乗り越えことができるとすれば、そのヒントは、バブル期にあるのではないか──
貨幣愛の向かい側には、商品や労働の価値を高めることがあり、勤勉さの向かい側には、ワークシェアリングや生活時間を重視する見方がある。しかし、経済のバランスがひとたび失われると貨幣愛は高まり、商品や労働の価値は低下する。ワークシェアリングは、むしろ賃下げや企業内の雇用補蔵を想起させるものとなる。産業構造の転換と、それにともなって職業訓練と労働移動が求められるようになる。
職業訓練は、勤勉さによる規律の強化に合い重なる。経済の「構造改革」は、こうして、人間の改造をも要求するものとなる。つまり、経済の「構造改革」は、積極的労働市場政策(アクティべーション)、あるいは社会の絆を強め、個人の価値観を社会のそれに合わせようと意志する仕方と親和的である。
勤勉さと貨幣愛──これらを「デフレ心性」とよぶことにしたい。このデフレ心性が深化すれば、経済の苦境はいつまでもつづくのではないか──
デフレ心性を乗り越えることは、ベーシック・インカムの思想と相通じ、反響しあう関係にあるようにも思われる。何となれば、ベーシック・インカムの思想の中で、労働時間と余暇時間の間の区別が曖昧となったこと(ハート&ネグリ)が指摘される。また、先日のエントリーに指摘したとおり、その議論では、『職業の貴賎を積極的に認め、やりたくない仕事はしない、という考え方を権利として認める』のである。
しかしこの方向性には、労働の消滅、すべてが生活世界へと変わる極限点がある。それはまた、市場経済の終焉をも意味するだろう。この行き着く先は、古代的、太古的な労働観の復活であり、また、現在の経済は定常的世界となる──
真にリベラルであることは、この極限のところに位置し、それは現代の経済社会とは対立し、その崩壊に寄与するようにもみえる。
この続きは、いずれまた何らかの形で考えることにしたい。
(参考エントリー)
http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20061018/1161183497
年功制については、遅い昇進・小さい格差が従業員に厳しい競争を強いるメカニズムを持つことを熊沢誠、森永卓郎の議論を通して論じ、より重要な点として、人よりも高い役職に就くこと自体が働く意欲をもたらすという「ウェブレン財」(=みせびらかしの消費)的観点から、中高年層が限界生産力を上回る支払いを得ることが長期的観点から正当化されることを指摘する。同様に、「信頼」が取引コストを引き下げるという「社会資本」的観点からも、その妥当性は指摘される。
*1:これは、仕事を「地位財」とするロバート・フランクの見方とも共通する。(http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20070730/1185808434)