備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン「実践行動経済学 健康、富、幸福への聡明な選択」

実践 行動経済学

実践 行動経済学

 経済学では、可能な選択肢の中から、自らの「効用」を最大化するための最良の選択をする合理的経済人(エコノ)が主体である。合理的経済人は、予算制約の範囲内で、市場が提供する無数の商品から、系統的に誤ることのない選択をする能力を持つ。この意味で、合理的経済人には「選択の自由」がある。しかし、近年の実験経済学が明らかにしたのは、現実の人間(ヒューマン)は、合理的経済人とは違う生き物であるということである。

 安富歩は、その著書「生きるための経済学」の中で、M・エンデの「自由の牢獄」という逸話を取り上げている。

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

その逸話の中の主人公の男は、「人間には自由な意志があり、おのれの裁量で、あくまでもおのれの中から善や悪を生み出す」と信じている。彼はあるとき、その内側を扉で囲まれた円形の建物の中に閉じこめられ、ある扉の向こうには血に飢えたライオン、ある扉の向こうには限りない愛の歓喜を与えんとする妖精で一杯の花園、という状況で、自らの自由意志によって扉の選択を強いられる。最初に百十一あった扉はしだいに減り、向かい合わせに二つの扉が残り、そしてついに、ひとつの扉だけが残る。しかし、彼は結局、扉を選択することができず、その牢獄の中に永遠に残ることを選択する。最後は、扉は一つもなくなるのだが、自由意志を失い、神の御意に沿うことをその男は喜ぶ。
 「選択の自由」もまた「自由の牢獄」であると安富はいう。市場経済が提供する選択肢は文字通り「無数」であり、合理的経済人は、物理的な制約から、最良の選択を行うことができない。さらに世の中は「非線形性」に満ちている。つまり、二つの原因の組み合わせが、それら二つの原因のそれぞれの結果をもたらしてくれるとは限らない。「選択の自由」とはまやかしの自由であって、それは、全てが神によって決定される予定説的な世界に容易に移行してしまいかねない代物だという。

 セイラーらは、現実の世界の中における、一見、「自由の牢獄」を思わせるようなケースを取り上げている。米国のメディケア(高齢者を対象とする公的医療保険制度)の対象者に対する、民間医療会社が考案する多彩な薬剤費給付プランの提供(パートD)である。この制度では、加入者は、50〜60のプランの中から最良のものを選択する必要があり、デフォルト・オプションは「非加入」となる。パートDの登録期間が終わるころ、人々は、システムの使い方や中身がわからず、加入手続に悪戦苦闘することになった。

 ヒューマンは、エコノとは異なって、系統的なバイアスのある選択を行うことがある。具体的には、

(1) 判断を下すときの手がかりとして、単純な経験則を用いる傾向があるが、理解の手助けとなる基点の違いによって判断が異なる「アンカリング」、はっきりと簡単に思い浮かぶ要因は実際よりも高く感じるという「利用可能性」、自分のイメージや固定観念によって判断を行う「代表性」によって、判断にバイアスが生じること
(2) 自分の能力を高く感じさせる楽天主義と自信過剰
(3) 損失回避的であること
(4) 現在の状況に固執する傾向を示す現状維持バイアス
(5) 文脈の違いによって、判断が違ったものになるフレーミング

という傾向がみられる。こうした傾向があることで、ヒューマンは、選択を行使する場面において、自由意志による最良の選択を行うことができず、系統的な誤りをおかす可能性がある。

 「自由の牢獄」は、選択の自由というものがあくまで擬制であって、現実の経済活動の場にはないことを示す一例となっている。しかし、安富は、自分自身の感覚を信じ、つぎのように述べる。

 真にこの牢獄から抜け出すには、私たちは自らの身体の持つ「創発」する力を信じる必要がある。この力は生命の持つ、生きるためのダイナミクスでもある。このダイナミクスを信じ、そのままに生き、望む方向にそれを展開させ、成長させるとき、人間は積極的な意味で「自由」たりうる。

 安富は、理論としての市場経済から、現実の経済活動の場である「イチバ」を救い出そうとする。このような姿勢についての是非はここでは問わない。しかし、「自分自身」というのはあくまでヒューマンである。最良の選択を行うことができず、ときに、複雑な仕組みの金融商品を選択し、身の丈に合わない負債を抱え込むこともある人間である。このことについての意識は、安富の議論からはみることができない。

 セイラーらは、選択の自由という擬制を尊重し、それに制限を与えることなく、人々の行動を予測可能な形で変える「選択アーキテクチャー」を用いることで、その選択を最良なものに近づける手助けを行うことができるという。自由を制限することなく、オプト・アウトする権利をも認める、という考え方を、セイラーらは「リバタリアンパターナリズム」とよんでいる。先のパートDの事例でいえば、給付プランを当局が評価し必要な薬の8割以下しかカバーしないプランが適用されたとき加入者のプランを自動的に変更する、手数料等の明細などを含む情報の開示、といった選択アーキテクチャーが、一例として考え得るものである。
 選択アーキテクチャーの力を理解し、それを人々の生活を向上させる創造的な手法と考えることで、セイラーらは、政治的には不必要に分化した米国社会の有望な中道路線になるのではないか、と考えている。「ナッジ」とは、選択を禁じることや、インセンティブを歪めるようなものではなく、人間の持つバイアスを理解し、その判断に際して、軽く背中をおしてあげるというようなものである。