その名称が示す通り、本書では、経済学の様々な分野における実証分析について、その最前線を、その分野の第一人者が渉猟。2016年に『経済セミナー』の増刊号として出版され、2020年に増補版として改めて出版されている。
「経済学の実証分析」といえば、労働経済学における自然実験を用いた実証分析や、因果推論に係る方法論的な業績に対し、2021年のノーベル経済学賞が授与されたことが記憶に新しい。
"The Royal Swedish Academy of Sciences has decided to award the Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel 2021 with one half to David Card “for his empirical contributions to labour economics” and the other half jointly to Joshua Angrist and Guido Imbens “for their methodological contributions to the analysis of causal relationships”
本書は、労働経済学、開発経済学、教育経済学などの分野での実証分析に加え、マクロ経済学や行動経済学の実証分析なども幅広く網羅する。冒頭の対談等からうかがえるのは、経済学における実証分析の近年の興隆であり、特に、ランダム化比較試験、差の差(DID)、回帰不連続デザイン(RDD)、傾向スコア、操作変数法など、リサーチデザインを重視した誘導型による因果推論である*1。
誘導型推定モデル
誘導型推定のモデル*2については、北村論文[pp.043-053]がわかりやすい。を処置変数(:処置群、:対照群)とする。成果を表す変数を、処置を行った場合、行わなかった場合とすると、処置群の平均処置効果(ATT)は、条件付き期待値により、
と表されるが、第二項は観察不可能であるので、*3を仮定し、
とみなす。さらにを仮定することで、平均処置効果(ATE)は、
となる。このような「みなし」が可能となるのは、処置群と対照群への割り当てがランダムに行われている場合である。ランダムに行われていない場合、自己選択バイアスが生じる。条件付き期待値は、回帰式を表現するものでもあり、
と表現することができ、この場合、の最小自乗推定値はATEと一致する。
なお、このモデルから、誘導型による因果推論のためには慎重なリサーチデザインが必要であることがわかる。が成立していなければ、結果にバイアスが生じ得る。差の差分析や回帰不連続デザインでは、「平行トレンド」というより強い仮定が置かれる。操作変数法においても、操作変数と成果を示す変数が無相関であると予め仮定され、操作変数を見つけることにも困難がつきまとう。
「信頼性革命」宣言
本書では、因果推論が重視されるようになったマイルストーンの一つとして、アングリスト(2021年ノーベル経済学賞受賞者)とピスケによる2010年の論文"The Credibility Revolution in Empirical Economics: How Better Research Design is Taking the Con out of Econometrics"が頻繁に取り上げられ、これをきっかけとして、実証分析の「信頼性」をめぐる誘導型推定陣営と構造推定陣営との「論争」が生じたとしている(中嶋論文[pp.075-085]に詳しい)。
構造推定モデルとは、経済理論に基づく構造を方程式系でモデル化し、パラメータを観察データに基づき推定する手法であり、例えば、人的資本理論に基づく賃金関数(ミンサー型賃金関数)などもこれに当てはまるとされる(澤田論文[p.032])。誘導型推定陣営が指摘するのは、構造推定は先見的な経済理論や根拠が薄弱な定式化に過度に依存し、また交絡変数(成果を表す変数と処置変数の双方に影響を与える変数)の影響から、構造推定による因果効果は極めて不明瞭であるとする。
AP*4は、自然や制度が生み出した偶然的な状況を上手く活用できるように実証研究を「デザイン」することで、先見的な仮説や仮定に推定作業が依存する度合いを最小限度にし、信頼性の高い因果関係の推定が可能であると主張した。彼らが強調するのは単純かつ明瞭な研究「デザイン」の重要性である。
(中略)
誘導型推定の「デザイン」が経済理論から自由であることを表すのに「根拠に基づく(evidence-based)」という言葉が使われることがある。これは、因果関係の特定は事前の理論や信念ではなく、データから明瞭に提出された根拠にのみ基づくべきだという考え方と解説される。したがって、「根拠に基づく」誘導型推定では、データが生み出された「真のモデル」を探求する努力は放棄される。ここでは「何が起きたのか」(what happened)が「なぜ起きたのか」(why it happened)よりも重視されるのである。(中嶋論文[p.077])
一方、構造推定陣営からは、誘導型推定の「デザイン」も理論仮説から完全に自由ではない、「デザイン」可能な一部の因果関係のみに焦点が当たる、推定された因果効果が特定の集団に対する局所的な効果である、ひとつの集団で発見された因果効果が別の集団の因果効果に当てはめることの信頼性(外的妥当性)が低い、などの反論がある。
論争後の進展としては、誘導型推定による実証分析においても効果を発現させたメカニズムの解明が重視されるようになり、単なる因果効果の発見ではなく、その背後にある経済理論を検証する研究が増加しているとされる。実証研究を「デザイン」する段階で経済理論を積極的に活用する動きもあるとする。
実証分析の更なる進化
本書には、「信頼性革命」がもたらした実証分析の進化とともに、その後の更なる動きとして、機械学習の利用や、マンスキーによる部分識別という新しい考え方の発展などが取り上げられている。このうち前者については、より最近の記事として、鹿野繁樹(大阪府立大学准教授)による日経新聞の記事『復権する「計量経済学」 ITやコロナで活用広がる』(2021年5月21日)も参考になる。
なお、本稿では主に応用ミクロ経済学分野の論文を取り上げたが、マクロ経済学分野の実証分析に関する論文も充実している。
経済学における実証分析の興隆は、社会全体においてデータの蓄積や活用が広がったこと、ベイズ統計モデリングによる数理モデルの活用が進んだこと、といった一連の動きと軌を一にするものでもある。その意味で、実証分析の興隆は学術分野を超えたところにも現れ得る。データの蓄積や活用に係る「コスト」という問題も、今後は議論の俎上に上ると考えられる。