小野善康『資本主義の方程式 経済停滞と格差拡大の謎を解く』
日本経済は成長経済から成熟経済へと移行し、これまで、成長経済を基礎として作り上げられたマクロ経済学上の数々の処方箋は、大きな見直しを迫られている。本書で著者は、このようなストーリーを明快かつコンシステントに説明するモデルを提示し、これを基に現代の日本経済を読み解き、政策提言を行う。
著者の書籍は、これまで、本ブログでも何度か取り上げた。特に10年前の『成熟社会の経済学』(2012年刊行)のエントリーでは、前半に同書の内容を整理したが、端的にいえば、いわゆる「流動性の罠」が常態化し、実質残高効果(ピグー効果)が成立しない経済学、というものである。本書のストーリーも概ねこれと重なり、大枠として、これに付け加えるべきことは特にない。
強いていえば、本書はモデルによる説明を重視しており、特にモデルから導出される新消費関数は、ケインズの消費関数と因果関係が逆、すなわち消費が所得を決定するものとなることから、読み手の興味を引くものである。ただし、この新消費関数に関しても、同じく10年前の以下のエントリーの中程に記載したとおり、2007年に出版した『不況のメカニズム』の中で、既にケインズの消費関数が批判されている。
2010年の「信頼性革命」を起点に、経済学では実証分析の重要性が高まったとされ、このところ話題となる書籍も、ミクロデータを縦横に活用する骨太の実証モノが中心であったように思う。待機児童問題において政策上の既成の考え方が鮮やかに反証される、といったように、実証分析の社会的インパクトは大きく、研究者にとっても魅力を感じる分野であることがうかがえる。こうした中で、本書のような理論中心の書籍を読む経験には、最近では新鮮さすら感じさせる。
成熟経済の基本方程式
本書では、まず成長経済のモデルを、つぎの基本方程式で指し示す。
左辺は貯蓄1単位当たりの便益であり、右辺は貯蓄1単位当たりのコスト、すなわち消費を先送りしないことの便益を表す。よって基本方程式は、貯蓄の便益とコストが均衡している時点の恒等関係を示すもので、左辺の貯蓄の便益が上昇すると貯蓄選好が高まり、逆に低下すると消費選好が高まる。
左辺第1項のは流動性プレミアムであり、貨幣と消費に依存する(貨幣ないし消費が増加(減少)すれば、流動性プレミアムは低下(上昇))*1。流動性プレミアムは、収益資産の利子率と一致する。
左辺第2項のは資産プレミアム、すなわち資産1単位あたりの便益であり、旧著では明示的に取り扱われておらず、本書で初めて定義される。これは資産と消費に依存し、資産が増加(減少)すれば資産プレミアムは低下(上昇)するが、いくら資産が増えても資産プレミアムは決してゼロとはならない点がポイントである。一方、消費増加(減少)すれば、取引のために貨幣需要が増すため、資産プレミアムは上昇(低下)する。
右辺の消費の便益は、時間選好率と物価変化率によって決まる。また、物価変化率は総需要ギャップと係数に依存し、
となる。なお、ここでは閉鎖経済を前提にモデルを記載するので、総需要は消費、投資、政府支出の合計である。
つぎに成熟経済のモデルを考える。成熟経済においては利子率がゼロとなり、金利操作による金融政策は無効となる(流動性の罠)。これにより流動性プレミアムはゼロとなる。資産プレミアムについても、資産が蓄積されるに従い消費選好が高まることで、それに依存しなくなるが、上述のように、資産プレミアムは決してゼロとはならない。よって、成熟経済の基本方程式はつぎのように書き直される。
成熟経済では、総需要は潜在的な総供給を超えることがないため、物価変化率はマイナス(デフレ)であることが常態化する。また成熟経済の基本方程式より、消費は、潜在的な総供給一定の下、総需要のみによって決定される。
ケインズの消費関数では可処分所得が消費を決定するが、成熟経済では総需要によって可処分所得が制約される。本書では、投資と政府支出は外生的に扱われ、特に投資については、消費が低迷している状況では生産能力を増強することには意味がないとし、一定値として扱われる。よって可処分所得は消費(および政府支出)によって決定されるモデルとなる。このような投資の「軽視」は、旧著より一貫して著者の主張にみられるものである。
新消費関数を基に、総需要の均衡値はケインズ経済学と同様の「45度線分析」により定まる。ただし因果関係は逆である。ケインズの消費関数では可処分所得が消費を決定するが、成熟経済の経済学(=小野理論)では、消費が可処分所得を決定する。
検討すべき課題
上述の共に10年前に書いた2つのエントリーでは、小野理論の含意を踏まえ、なお検討すべきポイントをいくつか取り上げている。整理すれば以下のようになる。
- 小野理論では、少子高齢化の影響を考慮しない。また小野理論では、投資はあくまで将来の消費のためであり重視されない。一方で、投資は少子高齢化の進展に伴う資本の限界効率の低下により抑制される。少子高齢化のマクロ経済への影響を過小評価してはいないか。
- 家計に対する所得政策や金融緩和は、家計消費や企業の投資を通じ、総需要を喚起する効果を持つのではないか。
- 資産バブルには効用と不効用の両面があり、著者は不効用の側面を重視するが、雇用を重視する立場に立てば、バブルの効用は積極的に評価できるのではないか*2。
以上の論点を順にみていきたい。一つめの少子高齢化の影響に関しては、今回の新著においても全く触れられず、成熟経済における総需要の停滞は、あくまで資産選好の非飽和性(資産プレミアムの非負性)によって説明される。
二つめの論点については、まず当該エントリーを書いた10年前と現在とでは大きな変化がある。低下していた家計貯蓄率は2013年にマイナスとなるが、2016年以降プラスに転じた。特に2020年のプラス幅は大きく、一人当たり10万円の特別定額給付金(政府からの移転)は消費につながらず、貯蓄を拡大させただけに終わったことがわかる。この点に関しては、小野理論と極めて整合的な帰結といえる。
一方、消費税増税の長期的な影響について、著者はつぎのように述べる。
消費税増税はその率だけ消費者物価を引き上げるため、景気に及ぼす効果は、物価上昇がもたらす実質金融資産の減少効果である。したがって、消費意欲の大きな成長経済においては、貨幣や資産が減って人々の流動性プレミアムや資産プレミアムが上昇し(中略)、貯蓄意欲が高まるから、消費を減らしてしまう。ところが成熟経済では、資産プレミアムは実質金融資産に反応しないため(中略)、消費は変化しない。このように、消費税増税が消費を引き下げるという主張が正しいのは成長経済だけであり、成熟経済では成り立たない。[p.85]
現実には、2014年の消費増税はマクロ経済に多大な悪影響を与えており、小野理論とは必ずしも整合しない。
最後の三つめの論点は、検討を要する重要なポイントである。新型コロナの影響を受けた2020年4月以降、雇用情勢は悪化したが、それ以前は安定的に推移していた。これは10年前のエントリーを書いた時点とは大きく異なる。
雇用に関する本書の記述をみると、以前と然程の違いはなく、引き続き、成熟経済下での失業の増加を懸念している。一方、近年の雇用改善に関しては、以下の箇所に若干の記述があるのみである。
成長経済であれば、作られたモノはすべて売ることができるから、雇用の増加はそのまま生産の増大に結びつく。ところが、成熟経済では、消費も総需要も伸びていかない。そのような状況で無理に雇用を増やせば、生産能力が上がってモノ余りが広がり、デフレが進んで消費を減らし、さらに総需要を減らしてしまう。そのため、雇われた人々は時短になるか、非効率な働き方をするしかない。また、長時間労働を規制すれば、1人当たりの労働時間が減るから、総生産は変わらなくても統計上の雇用数は増える。
以上が、アベノミクスにより実現した低失業率、高求人倍率、低労働生産性の理由である。[p.115]
すなわち小野理論では、近年の雇用改善の理由は、非効率な働き方により雇用に冗長性が生じているためであると解釈される。確かに、高齢者の非正規雇用が増加していることや、介護分野において女性の正規職員が増加していること、あるいは雇用改善の反面、賃金上昇率が停滞していること等を踏まえれば、雇用の冗長性が増している可能性は否定できない。しかし一方で、足許では雇用情勢の悪化がみられるものの、企業の雇用需要は現在も高い水準を維持している*3。
成熟経済下で生じた今回の雇用の改善については、引き続き、実証面での課題を有するものと考えている。