ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

人的資本論と内部労働市場論(2)

※文章の追加、修正等を小幅に行いました。(10/16/09)

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 さて、前回にみたように、内部労働市場論は人的資本論の特殊訓練、あるいはそれによって蓄積される企業特殊技能との関係性から、新古典派経済学的な合理性を有することが可能であるようにみえる。ただし、先に取り上げたデヴィッド・マースデンによる「雇用システムの理論」、あるいは、この「内部労働市場」という言葉が広がるきっかけとなったドーリンジャー=ピオレの理論をみても、そうした視点を必ずしも重視しているとはいえない。

内部労働市場とマンパワー分析

内部労働市場とマンパワー分析

後者について一例をとれば、内部労働市場において重要なOJT、つまり「仕事をしながらの訓練」では、好奇心やみせびらかしの欲求などが発端となり、学習と指導は無意識のうちに起こりがちである。このため、内部労働者は外部労働者よりも仕事の遂行により適する傾向があり、こうしたことは、企業特殊技能に限らず一般的な技能においても同様に当てはまることを指摘する。また、前者においても、一般訓練の費用は労働者によって負担されるはずであるというベッカーの指摘とは異なり、訓練費用は企業が負担することが多く、技能に関連する職業別労働組合公共財であると考えることができ、実際には企業と労働者はともに負担するケースが多いとしている。結論的には、教育訓練はそもそも内部労働者を中心に行われる傾向をもっている。

ドーリンジャー=ピオレによる内部労働市場

 さて、先にみたように、「内部労働市場」とは、ドーリンジャー=ピオレの定義にもとづいていえば、「労働の価格付けと配分が管理規則や手続きによって統制される製造工場などのような管理上の単位」(白木三秀訳、p.1)とされているが、これは必ずしも企業の内部において管理されるものだけを指すのではなく、職業別労働市場を指すものでもある。実際に、このような職業別労働市場は、建設業、港湾荷役業、特定のサービス業なのにみられるものであるとドーリンジャー=ピオレは指摘している。このように一般化された内部労働市場は、一企業の中での温情的な労使関係によって生じるものに限らず、何らかの社会的な誘因によって生じ得るものだといえる。この内部化の過程において重視されるのが、技術的特性や企業内訓練のほか、慣習化の過程である。慣習によって、労使関係は安定化し、労働者と使用者双方に内部化の誘因が生じることになる。慣習は、安定化というメリットをもたらすが、その一方で、効率性に対する制約として働くこともある。特に、経済的変化や技術的変化が急激に、予期せぬ形で生じた場合には、変化への適応を妨げる。
 なお、内部労働市場の成立を説明する上で有効な理論としては、企業特殊技能の存在のほかにも、労使間の「暗黙の契約」(Costas Azariadis)に関する理論や、それを発展させたオリバー・ウィリアムソン(2009年ノーベル経済学賞受賞者のひとり)らの「特殊性をもった交換」の理論がある。ただし、これらの理論についても、ドーリンジャー=ピオレによれば、「制度としての内部労働市場が提起した課題に対し、回答を提示できそうもない」(同書、p.13)としている。
 内部労働市場の存在は、労働市場における価格調整メカニズムの「存在」にも疑問を投げかける。新古典派経済学では、労働者の賃金はその限界生産力に等しいが、これが成立するためには、固定的な人件費が存在せず、雇用関係は一時的なものであることが前提となる。企業の募集・採用や教育訓練に係る費用の存在や、長期的な雇用契約が企業と労働者の双方にメリットをもたらすものであることを考えると、このような前提は現実には満たされない。採用された労働者が最初につく「入職口」の職務(ジョブ)にしても、「職務評価」を通じて企業の中の他の職務と関係しており、その賃金水準を調整することは企業におけるすべての賃金に大きな影響を及ぼす。内部労働市場においては、賃金は労働者ではなく職務と関係しており、限界生産力は労働者の賃金を決定するものではなく、賃金に対する「制約」であるに過ぎないのである。*1
 このように考えると、内部労働市場とは、そこで価格調整メカニズムが作用する「市場」であるとみなすことは必ずしも適切ではなく、「管理」によって付加価値を配分するシステムと考えた方がよさそうである。日本の場合を考えたとき、その「一次的労働市場」では、新規学卒時に企業に入職し、その後は長期雇用という「暗黙の契約」のもとで技能が蓄積され、内部的な管理のメカニズムによって、付加価値の配分を受けているものとみなされる。内部労働市場は、限界生産力によって一定の制約を受けるが、それが配分のメカニズムとはない。

マクロ経済の変動と内部労働市場

 内部労働市場は、雇用契約の柔軟性や教育訓練への誘因、慣習化による安定性が働くことで、通常の経済状態では生産性にプラスの効果を持ち得るものであるが、マクロ経済環境が企業経営に大きな制約を課すときには、こんどはそれが企業経営の柔軟性に対する制約となる。またその反対に、労働市場が逼迫し労働者を採用することが困難な場合も、採用要件の緩和による職業能力の低下や教育訓練コスト増大によって、生産性が低下することが実証されている(第5章付録)。
 企業にとって職業能力の低い労働者を採用することは、雇用契約によってその労働者との長期的な契約が続くことになるため、できるだけ避けたいものである。マクロ経済環境の変動が大きいと、その問題はより先鋭化し、企業は労働者の採用に躊躇する。雇用契約によって生じる調整コストを最小化するためには、企業にとって、スポット的に労働力を確保することが可能な「二次的労働市場」の存在は必須なものといえる。また、不況が長期に長引くようなことがたびたび生じることになれば、必要とされる「二次的労働市場」の規模はより大きなものとなる。
 内部労働市場は、このように、制約条件が大きくなることで企業経営に非効率を生じさせ、その一方で、制約条件が縮小すれば、生産性を高める効果を持つ。また、制約条件がより柔和なものであれば、必要とされる「二次的労働市場」の規模も小さなものとなり、そこに属する労働者が柔軟な雇用契約を希望するに限られれば、それが社会的な問題につながることもない。

労働参加率関係の文献の「二次」労働者は、労働力への執着意識が低いので、二次労働市場の特性として高い離職率を示す。さらに、職務への執着意識が低いので、昇進機会への関心を示さず、魅力のない仕事環境にも寛容である。このように、彼らは不利な立場の労働者が入職できる職務と多くの特性を共有する職務に採用される傾向がある。この対比は教訓的である。このことは、政策課題を構成するのは、二次雇用それ自体の存在ではないということを示唆する。二次雇用は、扶養すべき家族のいないティーン・エイジャーの場合などのように、職務それ自体が生活の二次的な側面であり、所得への要求があまり大きくなく、そして最終的には一時雇用へ入職できそうな労働者にとってはきわめて適切なものかも知れない。(同書、p.206)

このように「二次的労働市場」があるべき姿に保たれた時代は、1980年代後半から1990年代前半にかけての日本経済に実際にみられたものである。

むろん、製造現場における「期間工」のような存在はそれ以前の高度経済成長期にも存在した。この時代の雰囲気を理解する上では、1970年代の山田洋次の映画「家族」や「故郷」をみればよい。

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この時代においても、産業構造の変化によって故郷を離れ、より給金のよい「期間工」になることを選択する労働者は存在したが、その雇用は経済の成長にともなって安定したものとなり、しだいに生活もより豊かなものへと変化してきたのである。
 マクロ経済学の有力な学派は完全雇用や物価安定の達成を妨げる主な要因は、賃金や雇用の硬直性にあることを示唆している。ドーリンジャー=ピオレは、このことを受け、マクロ経済学と雇用の仕組みの「ジレンマ」について次のように指摘する。

 もし内部労働市場の諸規則・慣習が、雇用機会をその構成員にために独占し、労働市場におけるその構成員の相対的地位を高めようとする諸組織によって強いられているものであるとするならば、ミクロ・レベルの成果の改善はマクロ・レベルの効率性の改善にもつながるであろう。もし新古典派理論で理解されているような「限定合理性」や「リスクと不確実性」の諸課題に対し、諸規則が有効な解答を示す意味で効率的であれば、賃金や雇用の柔軟性におけるミクロ・レベルの改善は、マクロ経済の成長と効率性の両面における高いコストを代償としてのみ達成されることになろう。

しかし、「ミクロ・レベルの成果の改善」によって「マクロ・レベルの効率性の改善」を目指すという考え方自体、本当に正しいものだろうか。内部労働市場の効率性という視点に立つと、こうしたマクロ経済学における「主流」の考え方とは異なる「別の枠組み」の可能性があり得ることをドーリンジャー=ピオレは指摘する。
 ポール・クルーグマンは、効率的市場を信奉するマクロ経済学の流派について、次のように語っている。

 市場の信奉者たちは、市場機能について疑いをはさむ気はなかったので、不況というもの自体を再解釈する必要に迫られることになった。82年には、すでにカーネギー・メロン大学教授のエドワード・プレスコットによって導かれる一学派*2が形成されていた。この学派は、経済学者が不況に関して持っている観念をことごとく拒否した。ミルトン・フリードマンを含めて大方の経済学者は、何らかの金融的要因が不況に関わっていると考えているのに対して、この学派は金融と景気循環は全く関わりがないと主張した。また多くの経済学者のみならず、ほとんど全ての企業経営者にとって、不況というのは需要不足の状態を意味しているのに対して、この学派は景気循環は供給サイドから説明できると主張している。さらに、多くの人々にとって不況は困ったことであるのに対して、この学派からすれば、不況も経済の自然な、そして最適な活動の一部であるということになる。

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一方、クルーグマンにとって、不況とは、ケインズが言うように『国民個個人が現金を保有しようとすることが中心的役割を果たして、社会全体が協調不足になってしまうために生じる』ものである。この立場(ニューケインジアン・エコノミクス)からみると、積極的金融政策をとることによって協調不足を改善し、定常状態における社会の効率性を回復することは、マクロ経済政策の役割であるといえる。

もし人々が現金をもっと保有することを決めたときに、物価が下がらなければ、その結果、不況下の生産と雇用情勢から自律的に回復できなくなってしまう。不完全競争経済では、個人としては分別ある行動をとっていても、それがまとまると、社会経済全体として不都合が生じかねないのである。
 これまでの議論から、積極的金融政策をとることの意義は明白である。例えば、すでに述べたプロセスを経て不況に突入したとしよう。それに対しては簡単な解決策がある。つまり貨幣をより多く流通させ、お金を多く使わせることで所得も雇用も上昇させるだけでいいのである。

「ミクロ・レベルの成果の改善」によって「マクロ・レベルの効率性の改善」を目指すのではなく、積極的金融政策が貨幣の流通量を高め、所得・消費を拡張させることができるのであれば、内部労働市場は制約を受けることなくその本来の効率性を発揮することができる。

二次的労働市場における雇用の安定

 ここで、日本の雇用システムを改めて考える。たびたび指摘されてきたように、日本的雇用システムの「三種の神器」とされる「終身雇用」「年功賃金」「企業別組合」は大企業モデルにあてはまるにすぎず、中小零細企業の雇用システムは、「二次的労働市場」に近い側面を持っている。ただし、中小零細企業においても一定程度は雇用の安定が図られている。野村正實「雇用不安」では、日本の雇用構造を大企業モデル、自営業モデル、中小企業に分類しており、不況期においても中小企業の雇用に安定性がみられること(「雇用保蔵」)に寄与したのが政府の雇用維持政策(雇用調整助成金)であったことを指摘している。

雇用不安 (岩波新書)

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このような雇用維持政策は、減価の深刻な経済危機においても一定の役割を果たしていると考えられる。

 しかし、企業の雇用維持の対象となる労働者がいる一方で、いわゆる非正規雇用者は必ずしもその対象にはならず、実際に、昨年末には大量の解雇、雇い止め等がみられた。このような、一方における「二次的労働市場」の労働者が解雇、雇い止め等によって生活が困難となった場合に住居や生活資金を補給することは、市場経済の枠組みでは解決され得るものではなく、政府による社会政策(より効率的には所得再分配政策)の対象とみなされている。*3これからの社会政策上の重要な課題は、こうした、企業を通じた雇用維持政策とは違った労働者個人を対象とする職業訓練を含む積極的な就労化支援、あるいは生活支援であると考えることは自然であろう。
 なお、これまでの検討では、最初に提示した『パターナルな政策を前提とせず、これらの労働者に「労働力の再生産」が可能になるような「術」を与えることは可能か』との問いに対して、まだ答えを得てはいない。この先の議論は、ドーリンジャー=ピオレの最終章の議論から敷衍し、あるべき社会的な配分メカニズムとその実現手段を検討していくことになるだろう。

(続く)

*1:ただし、賃金が労働者ではなくその職務と関係しているというドーリンジャー=ピオレの指摘は、日本の一般的な賃金制度を考えた場合には修正され得るものであり、日本においては、より「人」に依存した賃金となっている可能性が高い。また、欠員の補充の場合も、新たに「人」を割り当てるだけでなく、「人」に応じて職務の詳細を組み替えるようなケースも一般的なものだと考えられる。

*2:貨幣を実物経済にとって完全に中立的なものとみなすリアル・ビジネス・サイクル理論のこと。

*3:厳密には、雇用保険がそのような役割を果たし得るものであるが、実際には、失業給付の対象とはならない労働者も数多く存在すると考えられる。