- 作者: 大屋雄裕
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2007/09
- メディア: 新書
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「自由な個人」への信条表明
功利主義は、個人の効用の水準を、国家が具体的に把握するとともに、その総和を最大化するものと考えられる。功利主義者である安藤馨は、アーキテクチャの発達により、リスクを事前に排除することで、我々自身が快適に、そして幸福に生きることができる可能性を肯定的にみる。
このような主張に対抗して、「自由な個人」という擬制に拘る著者は、本書の最後で、以下のような信条表明を行うことになる。
だが、それでもなお、人々が自分のことを自律的な個人であると信じていることには相当の意味があるのではないかと、私自身はまだ考えている。完全なアーキテクチャはまだ存在しないし、行為の価値を事前に決定しきれないことを考えれば、成立する見込みもない。食わず嫌いが治るときのように、事前の予測と異なった快楽ないし効用が生まれることもあるだろう。たどすれば、個々人が自己の行為の結果を引き受けるという前提においてさまざまな試行が放任される社会、個々人が自由な主体であり、自らの運命を選択しているという信念を中核においた社会の方が、まだ機能する可能性が高いのではないだろうか。
新しい創造を生み出す前提として、逸脱が社会に承認され、それが反復され制度化される必要がある、との指摘は興味を引いた。アーキテクチャによる安定し、守られた、心地よい社会は、一方で新たな創造への可能性を低める。この平和な世界には、「安楽」はあっても、個人の覚醒を高めることで得られる「快楽」は少ない。社会全体のレベルでみても、新しい創造が生まれない社会は定常化し、さらなる豊かさの高まりを期待することが難しくなる。
また、アーキテクチャの背後に、設計者の善意と優しさがあるとして、それは適切に設計し得るものなのだろうか。本書にも、レッシグ自身が指摘した監視システムの問題事例が取り上げられている。さらに、そのような善意は何らかの価値判断に基づくものだとすれば、その価値基準は、恣意性の呪縛を免れないだろう。人間の不完全性を鑑みたとき、個人の多くの要素をアーキテクチャに委ねることは難しいのではないか。
「共同体の凶暴性」に対する暫定的回答
国家の統治の機能に多くを期待せず、個人の自主性を重視する見方への反論として、国家と個人の二分法に偏った見方に固執すると、その間に存在する共同体の存在を見過ごすのではないか、というものがある。国家の統治の機能が低下すれば、共同体の持つ凶暴性が露わになる。ここでもかつて書いたように、『保護領域の設定によって個人の自由が確保されたとしても、その結果、保護領域内部での個人の「専制」を許す』ことになり、『この状況では、社会における形式性を纏わない人間の「剥き出しの生」が権力の標的とされるため、より深刻さが増す』可能性がある。
この批判に対する回答を暫定的に述べると、所得再分配と安定したマクロ経済運営、社会のさまざまな分野に行き渡る保険制度(このような保険制度の構築を促進することは、実施主体の如何に関わらず、社会政策の一つであると考えている)などによって、市場競争の厳しさや共同体の凶暴性を(ある程度)コントロールすることが可能なのではないか、ということになろうか。
さらに付け加えれば、共同体はひとりの個人に一つだけあるわけではない(ひとりの労働者は、企業に属するとともに、労働組合、地域コミュニティ、学会等に属し、それら多様な場において活躍することは可能である)。多様な価値基準を持つ多元的な共同体が構築できれば、ある一つの共同体から受ける暴力を避けることもできるのではないだろうか。