ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

柄谷行人、浅田彰『全対話』

 1980年代から90年代にかけての対話を集約しており、以前、何処かで読んだことのある文章がほとんど*1バブル崩壊金融危機以前の時代性が色濃く感じられ、長期停滞期を経た今とは文脈が異なる。加えて、経済学的な視点からみると、現在の論壇水準から乖離した「稚拙」さがある*2。「グローバリズム」という概念は未だなく(もしくは意味合いが異なっており)、それが現れる直前の極限点に思考を進めるが、現在の視点からすれば日本的「ポスト資本主義」といったものにリアリティは感じない。
 日本的「コーポラティズム」批判にしても、そもそも、日本には「主体」がなく関係主義的なので「コーポラティズム」も容易なのだ、といった物言い自体、唯物的ではない。日本の雇用システムは、幾度かの批判の反復を繰り返しつつ、その都度柔軟かつ漸進的に変化している。女性差別に関する発言を読めば、この30年間で「日本もだいぶ変わったな」との印象を誰もが持つだろう。一方で、「個人の罪が親類にまで及ぶ」、「封建的な恥の文化とそれに基づく相互監視システム」[p.174]という指摘については、現在の日本でも然程変わってはいはない。むしろネットで検索が容易になった分、赤の他人から家族や親族の素性を暴かれることすら珍しくはない。最近では、家族の新型コロナが職場等に広がり、その地域に住むことができなくなった事例なども聞く。よく韓国の庶民が持つ「恨の文化」が指摘されたりするが、日本の庶民の中にも似たような要素はある。

 「新大衆社会」が進行する中でのインテレクチュアルの在り方について、それなりの危機意識は感じられる。当時の思想・批評論壇は、少なくとも今より国際性豊かである。「外部」からの視点がないと「オリエンタリズム」に陥る、ということだろうか。天皇制、マルクス主義、宗教等に関する議論では、現在は希薄化した「リアル」なものが存在している印象を残す。現在の視点からすれば「理念」(言葉)はますます道具的となり戦略的に用いられるが、(憲法9条に関する部分などを読むと)著者らもそうした「理念」の使われ方を否定しているわけではない。

 著者らの議論はメタフォリカルである。本書の内容とは離れるが、例えば、柄谷行人『内省と遡行』について「氏の最高傑作」との呼声は(一部において)今だ高いものがあると認識しているが、それに連なる前作の「形式化の諸問題」ではゲーテルの不完全性定理に言及し、数学、ひいては科学の非合理性を主張するなど、「地に足がついていない」印象を残した。本書でも、総じて自然科学、(経済学を含む)社会科学に対し論壇的な上位性を自負しているような印象があり、ペダンチックさは否めない。
 また、本書では歴史の隠蔽(天皇制に関する事など)について議論されており、この認識が、例の「プラトンソクラテスを」「エンゲルスマルクスを」的な(反証可能性のない)隠蔽の階梯話につながった可能性はある。

 最後はマルクスについての議論で締められるが、それを読みつつ改めて、マルクスというのは経済学が古典派から新古典派へ「進化」する際の「必要悪」のようなもの、との印象を持った。労働価値説から効用価値説へ移行する上で、マルクスの自己疎外論や価値形態論は、必然的に経過すべき地点にあるのだろう。自分には、マルクスとはそのように学説史の中間地点として評価すべきものであって、それ以外の(ある種宗教的な)意味合いなど持たせる必要はないと感じられる(現在は「効用関数の極大化」という根本の条件すら遠景に遠のき、その一階条件の「オイラー方程式」がら全ての話が始まるような印象もある)。

転向の問題

 「昭和の終焉に」の中で、遠藤周作『沈黙』について、つぎのように述べている。

柄谷 遠藤周作が『沈黙』だとかを書いてきたときに、ぼくは、マルクス主義者の転向問題と重なっているのかなと思って読んだんだけれども、じつは戦争中の日本のキリスト教との転向問題なんですよね。日本のキリスト教は巧妙に転向したんですよ。戦後、その問題を全然やっていない。全共闘の頃に神学系の大学でいくらかあったんだけれども、全面的な追及にはならなかったと思います。
 むしろ、遠藤周作がやったのは吉本隆明がやったのとよく似ていまして、転向するみじめさ・卑小さのほうに真の信仰への契機があるとか、より神に近くなるとかいう論理です。転向そのものを救済に変えてしまう、そいういう転向論を完成したんじゃないかな。しかし、それは日本のカトリックの思想にすぎないと思うんですよ。カトリックの現状をみますと、「解放の神学」みたいなもので徹底的にやってますからね。日本のカトリックの『沈黙』的な自己正当化なんていうのは、世界性を持ってないと思う。[pp.54-55]

沈黙(新潮文庫)

沈黙(新潮文庫)

 加えて、小林秀雄は『私小説論』で、マルクス主義は日本人に初めて、「いわば絶対的な神のような、宗教が持っている以上の絶対的なものを突きつけた、という意味のことを言っている」とし、「本当に転向問題をもたらしたのはマルクス主義で、それは本質的に西洋的なものだったから」だと発言している。

*1:土人」の国発言や明治・昭和反復説など、懐かしい話も出てくる。

*2:例えば、ケインズ主義に言及しつつ、GNPにも金融政策にも言及しないなど。ただしマクロ経済学的な視点は有しており、言葉自体は出ないが「合成の誤謬」を認識している。また、戦前の石橋湛山に対する評価や「大蔵官僚なんかは、国家ならぬ国庫のことを憂えている」という浅田発言には妙に共感する。