恒例のエントリーです。本稿では、今年出版された書籍ではなく、今年読んだ書籍の中から10冊を取り上げます。以下、順不同で。
渡辺澄夫『ベイズ統計の理論と方法』
事後分布はパラメータ(平均値、分散等)の分布であってデータの分布ではない、という点は、公的統計等の公表値の扱いに慣れていても数理統計学初見の人には引っかかり易いポイント。通常、最尤法は点推定(偏微分→極値)だが、ベイズ法は分布の推定、という点も重要。パラメータ集合がコンパクトなのは、定義域内に極値が存在すること保証するためか。
経済セミナー編集部編『新版 進化する経済学の実証分析』
Lewbel(2019)は最近の識別問題に関する展望論文で2ダース以上の識別概念を整理しているように、最近のミクロ計量経済学の論文では、必ずと言っていいぐらいに、その論文の識別戦略(identification strategy)が議論されている。これは実証研究者が関心のあるパラメータをいかに識別し、特定化しているかが厳しく問われているということであり、また、それに答えておくことが論文の作法として定着してきていることを意味している。[p.045]
ドストエフスキー(亀山郁夫訳)『カラマーゾフの兄弟』
20年ほど前に新潮文庫版で読んだが、光文社文庫版を少しずつ読み始め、全5冊をようやく読了。大審問官説は「天上のパン」と「地上のパン」との対比のように語られるが、自由主義と功利主義との対比として理解。また功利主義は権威主義との親和性がある。
夏目漱石『三四郎』
若い時分に何度か読んだが、当時は土地勘なく読んでいたのだな、とつくづく思う。一高は(駒場ではなく)弥生にあった時代。考えてみればこの時代、英語ができなければ本も読めず、講義も聴けなかった。なお、今は知的サロンへの憧れが薄れており、主人公に子どもを重ねてしまうので、(かつて読んだ時のような)感情移入はしなかった。石原千秋『学生と読む『三四郎』』によれば、『三四郎』の現実の主軸は野々宮と美禰子の破局であって、三四郎のことは「天然ボケ」と表現されている。(実際、三四郎の内面を通さず、語り手が語る現実を主軸に置いて読めばそうなる。)
終盤の夕暮れの場面、「迷羊」が常に2つ重なるところは良い。
かつて美禰子といっしょに秋の空を見たこともあった。所は広田先生の二階であった。田端の小川の縁にすわったこともあった。その時も一人ではなかった。迷羊。迷羊。雲が羊の形をしている。
・・・
「ヘリオトロープ」と女が静かに言った。三四郎は思わず顔をあとへ引いた。ヘリオトロープの罎。四丁目の夕暮。迷羊。迷羊。空には高い日が明らかにかかる。
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「我はわが咎を知る。わが罪は常にわが前にあり。」
情景が映像のように、あるいは五感に訴えるように表現される。漱石にとって女性は謎であり、他者である。
ジェーン・オースティン(冨田彬訳)『高慢と偏見』
翻訳が読みにくい印象。高慢、虚栄、偏見を通じ登場人物たちが繰り返す喜悲劇が、ドラマ仕立てではなく淡々と進む。突然時間が止まり、語り手が雄弁になるところがある(女性をめぐる社会環境に関する事など)。最後の絵に描いたようなハッピイエンドは逆に新鮮。ベネット氏には個人的に親近感を覚える。
*1:季節調整に関する記述はない。