- 作者: 稲葉振一郎,立岩真也
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2006/08
- メディア: 単行本
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まだ第1章読了段階だが、特に立岩氏の議論について、自分にとってなじみのない(或いは違和感のある)展開がでてくるので、取りあえずメモしておく。
まず、国家がなすべきこととして「分配」があり、その上で、各自に交換するだけの手持ちがある場合には、交換は有益とされる。この点については、稲葉氏の議論の中にも「所有が市場の前提」という言葉が出てくる。また、この所有に関する立岩氏の補足説明の中には、「誰が最初にどういうものを持ってていいってことになってんの、という問題こそが基本的な問題」という発言がでてくる。これらの論点は、初期状態における手持ちの「資産」を所与として考える思考に慣れきった自分には違和感として残る。
1点目として、自分が親から受けた財産や、ある種のノウハウ(「帝王学」のような)に、人生の初期状態において格差があるのは仕方がない、この点についてとやかく語ることは必要のないことと考えている。その意味では、厳密な「機会の平等」の確保なんて話はそもそも不可能。(ただし、相続税率について廃止せよなんて考えているわけでは勿論無く、既にあるルールに則って生じ得る格差については、という意味である。民主的なプロセスに従い、社会のルールが漸進的に変化していくことも当然あってよい。)2点目として、人生の初期状態において個々人の能力に格差があるというのも同じ意味で仕方がない。ここまで来ると、国家の「分配」への介入は、個々人の価値観や身体への介入といった話とどれだけ違いを保てるのかわからなくなる。また、究極の「機会の格差」は、個人の身体と能力の格差に繋がり、最終的に優性思想にも関わってくるという論点もある。
次に、「これでよいはずだという立ち位置」を決めておくことには意味があり、「採るべき原則、立つべき立脚点」は明確にしておかなければならない、としていること。この点について、「戦術的」には漸進主義・改良主義を採るとしているのでそれはそれでよいのだが、理念のレベルとしても、それを誰が決めるのか、という話は残る。国家には否定的だとすると、これを読んだ例えば自分の周囲の人物などからは、それは「知識人」の役割である、な〜んていう話が聞こえてきそうな気もする。*1
最後に、成長を目指さない、少なくとも我が国では税を用いた成長策は不要、との話が出てくる。この点について取りあえずは留保するにしても、関連してこのような記述がでてくる。
現在の技術の水準と働ける人の数とを考え合わせたとき、いったい、どれほどの一人当たりの労働が必要かと考えるなら、少なくとも現状に上乗せをするほどのものは不要であると考えられる。より多くの人に働いてもらいたいなら、労働を分割して、それを実際に可能にすることが求められる。
ここまで来ると正直ついて行けない。というか、このような考えはある(しスターダムにのし上がった時期もあった)が、実際、理念としてはわかるにしてもフィージビリティのある議論と言えるのだろうか、と思ってしまうのだがどうであろう。(とメモした上で、先へ進もう...)
*1:そのような話が聞かれたときは、「別にあなたがそこまで考える必要はないし、誰もあなたにそこまでしていただくことを求めてもいないよ。」と言ってあげるのが、最も効果的な薬となろう。