備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

ジェイン・ジェイコブス(香西泰訳)『市場の倫理 統治の倫理』

 率直にいって面白い。これまで自分の周囲で話題に上ることがなく、いまに至るまで読まずにきたことが不思議に思える位に面白かった。

 原題は”SYSTEM OF SURVIVAL A Dialogue on the Moral Foundations of Commerce and Politics”。”Politics”という用語の使い方だが、これに関連する職業として本文に「軍隊と警察、貴族、地主、政府各省と官僚、独占企業」が掲げられているので、「政治」ではなく「統治」と訳したのは適切だろう。”Morals”については直訳的には「道徳」であるが、訳者あとがきによれば「英語のmoralとethic、日本語の道徳と倫理を区別せず、交互に自由に用いた」とのことである。初出は1992年、当時の日本はバブル崩壊の最中ではあったが、その後のデフレ下において金融機関のバランスシートの問題が拡大・顕在化するよりも前の時期に当たり、本書に出てくる日本への言及では、台湾や韓国、香港に先んじ経済がさらに発展する過程にあるような印象を与える。一方、金融機関のバランスシートに関係する問題として、途上国融資の不良債権化、貯蓄貸付組合LBOなどの話題が出てくる。なお、アジア通貨危機や日本の金融危機が顕在化したのは1997年の後半頃からであり、当時既に本書を読んでいた人にとっては、当時の問題には既視感を持って接していたのだろうと思われる。
 本書には、中心人物であるアームブラスターの他、個性的な4名の(主要)人物が登場する。当初は気の乗らないままアームブラスターの呼び出しに応じた4名は、その後、仕事に関する道徳、諸システムについてレポートし、議論を繰り広げることとなる。

市場の道徳、統治の道徳

 2組の道徳律があり、それぞれ組の中では相互矛盾がなくまとまりがあるが、それぞれの体系間には矛盾がある。一方は市場の道徳で、つぎのような格言からなる。

暴力を締め出せ、自発的に合意せよ、正直たれ、他人や外国人とも気やすく協力せよ、競争せよ、契約尊重、創意工夫の発揮、新奇・発明を取り入れよ、効率を高めよ、快適と便利さの向上、目的のために異説を唱えよ、生産的目的に投資せよ、勤勉なれ、節倹たれ、楽観せよ

もう一方は統治の道徳で、つぎのような格言からなる。

取引を避けよ、勇敢であれ、規律遵守、伝統堅持、位階尊重、忠実たれ、復讐せよ、目的のためには欺け、余暇を豊かに使え、見栄を張れ、気前よく施せ、排他的であれ、剛毅たれ、運命感受、名誉を尊べ

それぞれの道徳律の枠内では矛盾がない。市場の道徳は、大都市で外国人相手に取引を行うコスモポリタンにとっての道徳であり、進取の精神があり、新たな価値を生む。もう一方の統治の道徳は、「領土に対する責任」に関係し、保護、獲得、利用、管理、支配するための道徳である。前者は、我々人間が欲するものを取引し、交換することに関係し、後者は、それを占取し、再分配することに関係する。

本書の各章で繰り返し主張されるのは、それぞれの道徳体系がそれに似合わない役割を負わされると異常なことが生じ、二つの道徳体系を混ぜ合わせることは大いなる害悪を生み出す、ということである。科学の分野に(政府の研究費補助に伴い)統治者の考え方が忍び込むと、科学者のインセンティブは変化し、統治者の関心に自分の興味を合わせるようになる*1。「大商人の支配者グループが軍事独裁政権を擁立」すれば、彼らを批判する言論人が弾圧され、抗議行動を起こすものが殺される。鉄道警察が活動の評価基準に(商業コンサルタントが持ち込んだ)1労働時間当たりの逮捕件数を用いれば、もっともらしい「でっち上げ逮捕」(その対象は大抵スペイン系か黒人)が増える。こうした道徳の混乱を、アームブラスターは「混合道徳」と呼ぶ。このようにして道徳体系の一貫性が失われる場合、公正な解決策を導くことは困難となる。

 本書の内容からは離れるが、統治の道徳が市場を支配した場合、「混合道徳」による道徳の混乱とともに、市場機能の喪失という問題が生じるケースも考えられる。この場合、肝となるのは、統治の道徳の中の「気前よく施せ」の部分である。
 例えば、大規模な公的雇用と求職者の存在を前提に、公的な職業仲介機能を利用し、雇用・賃金をターゲットないしアンカーとするマクロ経済政策を運用する場合を考える。これはいわば、かつての日本で炭鉱労働者の失業対策事業として実施された政策に近いものである*2。しかし(通常の)失業対策事業では、公的雇用の賃金水準は地域の市場賃金よりも低い水準とする必要があり、さもないと、逆に地域の雇用情勢を悪化させてしまうことにもなる。しかしここで考えているのは、最低賃金制度の履行可能性を高め、マクロ経済の好循環を意図して賃金を引き上げるターゲット政策である。このような政策を行う場合、(ターゲットとなる)公的雇用の賃金水準は、マクロ金融政策等とも歩調を合わせ、適切な水準に設定することが必要であるが、仮に、政治が統治の道徳に従い労働者に「施し」を与えようとすれば、地域の労働市場を破壊し、納税者に過度な負担を課することになる。具体的には、求職者にモラルハザードが生じ、公的雇用の賃金水準に技能が見合わない求職者が増加することで、労働市場のマッチング力が低下する。
 この問題を防ぐには、(後述するアームブラスターの原則に従い、)例えば、公労使三者構成の委員会を設置し、ターゲットとすべき公的雇用の賃金水準は当該委員会に決定を委ねる、といった工夫が必要となる。しかしこの場合であっても、当該委員会は、(金融市場をフィールドとしてマクロ金融政策を担う日本銀行がそうであるように、)政治機構から独立し、適切なターゲット政策が可能となるよう一定規模の調査研究機能を持つことが必要となる。

二つの道徳体系を活かす方法

 道徳上の混乱を避けるためには、市場の道徳と統治の道徳は区別される必要がある。そしてこれら二つの道徳体系を活かし、役立てる方法についてさらに話が進む。市場の道徳に沿った発明、工夫としては、地域経済自助組合やグラミン銀行の事例が挙げられる。一方アームブラスターは、統治の倫理の体系に沿った発明、工夫の原則として、統治者は「これがあなたがた商人がしなければならないことで、われわれはそれを強制する。しかし、どのようにしてそれを達成するかはあなたがたの責任だ。自分で商業的なやり方を探しなさい」と言うべきだ、と主張する。

 本書の内容からは離れるが、このアームブラスターの主張するような政策には、マクロ金融政策や上述のような雇用・賃金ターゲット政策、その他法令による制度設計等が含まれると考えられる。一方、統治者が市場の道徳に介入し得る政策もあり、かつての産業政策や金融行政はそうしたものだったのだろう。経済・財政政策の大枠に関与する当事者が企業家等と関係を深め、ときには経営に関与するケースなどは、「混合道徳」の最たるものといえる。
 訳者あとがきにも指摘されているが、主流の経済学者に対し著者は厳しい批評を行う。地域の輸入代替運動(いまでいう「地産地消」のようなものか)について、経済学者は比較優位を武器に批判するが、これに対し、アームブラスターに「教えられた学識で頭が曇らされている」と言わせている。もちろん経済学者の批判が正しい場合もあるだろうが(過度な補助金が納税者の負担となっている場合など)、その学識を「不磨の大典」とし、あらゆる事象に成立するかの如く主張するのであれば、折角の「市場の道徳に沿った発明、工夫」を殺すことになる*3
 経済学者に限らず、政策に先立って調査・分析を行う場合、既に実施済みの調査データを使用する以上、調査を設計した人間の思考の枠組みを超える進取の事実を導くことは難しい。また、分析によって何らかの相関関係を導けたとしても、調査データにはない固定効果が交絡因子となっている可能性は否定できず、そのような場合には(最近流行の)因果推論には至らない。機械学習教師なし学習が次元の削減で興味深い特徴量を導いたとしても、調査データにない(重要な)要因に関しては、この方法も盲目である。何れにしても、進取の精神は、調査の設計段階にしか発揮されない。このように考えると、経済学や統計学、データサイエンスの世界は、著者がアームブラスターに言わせている通り、「本質的に統治者気質」に支配されており、市場の道徳、進取の精神という観点からは自ずと限界を持つものだ、ともいえそうである。

*1:これは日本における基礎研究力の低下に関連し、近年、よく指摘されることとも繋がる。

*2:なお、この場合の公的雇用は、(通常の)金融市場調節が短期金利を指標とするのと同様、比較的短期間の有期雇用契約であることが前提である。また、雇用・賃金のターゲットとなる水準は、地域別に設定する。

*3:訳者あとがきでも、香西泰氏は「経済学者にはモデルにこだわり、モデル化しにくい実態を議論の外におく悪い癖がある。シュンペーターの偉大な仕事にもかかわらず、均衡を重視し発展を軽視するきらいがある」と指摘している。