備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

濱口桂一郎『日本の雇用と中高年』

 長期雇用と年功賃金をベースに持つ日本的雇用慣行については、賃金水準と仕事のパフォーマンスが年齢が上がるごとにしだいに乖離し、特に中高年の雇用が定年まで保障されることで、本来は雇用されるべき若年者の雇用の場を不当に狭めているとの批判が一部の経済学者や若者論者を中心になされる。その一方で、内部労働市場論から派生した知的熟練論は、年功賃金は知的熟練の向上度に基づき合理的に決められるものだと主張する。本書は、労働政策の実務家的視点から、上述のような理論中心の議論を一刀両断とし、社会政策論と軌を一にする労働政策論を持ち込むことで、現在の「メンバーシップ」を基本とする雇用システムを「ジョブ型」に作り替えることを提唱する。著者はこれまで『新しい労働社会』、『日本の雇用と労働法』、『若者と労働』という3つの新書で、それぞれ違った切り口から、避け難く進行する少子・高齢社会の中での欧米の議論とも平仄の取れた労働政策の在り方や、多様化する雇用契約と働き方が広がる中での「ジョブ型」労働社会を提唱している。本書もまたその意味では同様であるが、特に「メンバーシップ型」雇用システムの中での中高年の問題に焦点を当てている。 

 本書の刊行は2014年5月、雇用情勢の改善が始まってから1年以上経過した時期であるが、その2年前は東日本大震災の後遺症も残る中、円高により、地方の製造現場を中心に雇用調整の動きが広がった。このように一見雇用の安定に寄与している日本的雇用慣行の中で、「運悪くこぼれ落ちた者が著しく不利益をこうむってしまうような構造自体に着目し、その人々の再挑戦がやりやすくなるためにはどのようにしていったらいいのか」という視点の重要性を著者は指摘する。知的熟練論では、不況期に中高年を標的として行われるリストラは技能を浪費しており大きな損失だと指摘されるが、これに対し著者は、日本企業が知的熟練論に従って人事管理をしているのであればこのような事態は生じないはずで、「小池(和男)氏よりも日本企業の方が冷静に労働者の価値を判断しているからこそ、中高年リストラが絶えず、高齢者雇用が問題になり続けるのではないでしょうか」と手厳しい。加えて、内部労働市場論が一般化したことの功罪として、雇用政策の中から中高年の視点が消え、高齢者対策は定年延長と継続雇用に焦点が絞られ、年齢差別禁止法制の試みはほとんど議論されず消え失せたことを上げる。こうした指摘から、著者自身の、これまでの(雇用維持を主眼とする)労働政策が前提としてきた雇用システム論からの決別を読み取るとすれば、少々大袈裟であろうか。

 また中高年の雇用問題を考える上で、定年制や雇用保障と併せて避けては通れない問題に成果主義の広がりがある。本書では、かつての職能資格制度の下での能力主義や欧米型の職務給と、日本の成果主義との違いについて、明確かつ簡潔に記述している。まず、賃金決定における年齢や勤続年数といった要素は明確に否定され、職能資格制度における能力評価基準が主として潜在的能力であったのに対し、成果主義では成果や業績という形で現れた経済的能力を意味するようになった。また、短期的な観点から労働者の市場現在価値が重視され、査定結果は累積されない(洗い替え方式)。*1
 こうした賃金制度は、すでに多くの職場に浸透していると考えられる。またこれは、雇用情勢がこのところ稀にみる改善傾向にあり、パート労働者の時給や新卒者の初任給は改善傾向にある中、なぜか平均賃金は停滞を続けているという現下の情勢にも影響を与えているだろう。平均賃金が停滞している理由についての教科書的な回答は、雇用情勢がまだ完全雇用に達していないため、というものであるが、一方で雇用の入口における賃金は明らかに上昇している。雇用情勢が改善する中、中高年の雇用問題もいまは目立つ形では現れてはいないが、賃金問題としては底流にあり、見えない形で家計から法人企業への所得の移転をもたらしているようにも感じられる。

 ところで、知的熟練論が指摘する日本的雇用慣行の合理性が正しいものであるかどうかは、日本的雇用慣行の維持可能性の如何に直接的につながるものではない。中高年の仕事のパフォーマンスが仮に賃金に見合うものでなかったとしても、長期的な契約の仕組みとして合理的なものだとする説明は、生命保険の仕組みとの類推から可能である。もし生命保険の保険料が本来の死亡リスクに見合うものだとすれば、年齢が上がるに従い保険料も上がらなければならない。しかし、今のほとんどの生命保険に取り入れられている平準保険料方式*2 では、年齢に拘わらず一定の保険料となる。同様の考え方で、日本の長期雇用と年功賃金は、若い時の賃金を仕事のパフォーマンスに比して低くし、その差額を長期的に積み立てることで、中高年期の賃金水準を維持する仕組みだとみなすことができる。 
 ただし、そのようにみなせることの前提として、法人企業は若い労働者に本来支払うべき仕事のパフォーマンスと賃金との差額を基金として積み立てていると擬制し、その分を家計に帰属する賃金とみなす必要がある。実際、多くの労働者はこうした「暗黙の契約」の存在を前提に生活設計を行っているものと考えられる。併せて、マクロ経済のパフォーマンスが安定していることが重要で、さもなくば保険契約の逆ザヤ問題と同様、法人企業は年功賃金契約に係る負債を抱え込むことになる。
 なお、実際には法人企業はそのような基金を積み立てているわけではなく、むしろ、労働者構成に長期的に変化がなく、若い労働者から中高年労働者への賃金の移転が長期的に維持可能な形で確保されていたがために、ある時期までは日本的雇用慣行の問題は顕在化しなかったと考える方が自然である。いいかえれば、「暗黙の契約」の存在は所詮擬制に過ぎず、使用者と労働者の認識には、もともと相互に齟齬があったということなのだろう。また、いずれにしてもその仕組みが維持可能であるためにはマクロ経済の安定が前提であり、知的熟練論が妥当性をもって広がったことの背景には、高度経済成長期から安定成長期にかけての高い経済成長があったと考えるべきだろう。
 一方で、少子・高齢化や高学歴化、経済の低成長が続く現在においては、日本的雇用慣行の維持可能性に疑義が生じており、非正規雇用問題などもその延長線上にある。そうした文脈の中において、本書が最後に提唱するような「ジョブ型労働社会」という社会制度も説得力を持つものとなる。しかしそれは同時に、これまでは顕在化することのなかった「労働力の再生産」のための費用(家計の生計費や育児・教育費等)を誰が負担するのかという問題も招来することになる。これを欧米型社会システムがそうであるように国家が担うとしても、その結論を導くまでには多くの政治的資源を費やすことになる。このことは昨今の消費税をめぐる喧騒をみていても明らかであろう。むしろ、より安定的なマクロ経済のもと、現在の日本的雇用慣行を維持することの方がよりコストが少ないのではないか、との見方ももう一方の考え方としてあり得るものである。

*1:もちろん、本書では明確に記述されていないが、職階(部長、課長等)ごとに能力評価基準は異なり、いったん上がった職位はそうそう下がるものではないことを考えると、職階を通じた査定の累積はあり得るだろう。

*2:http://www.seiho-hitsuyou.com/266

稲葉振一郎『不平等との闘い ルソーからピケティまで』

本書の概要

 ピケティ『21世紀の資本』には、経済学における「不平等」をめぐる歴史の中で、いかなる意味で新しさ、ないしオリジナリティがあるのか──この本では、資本主義的市場経済における不平等に関する理論の歴史が俯瞰され、それを経ることで(特に、著者のいう「不平等ルネサンス」との違いが明らかになる中で)、読者はそれを知ることができるようになる。
 話は、ルソー『人間不平等起源論』とスミス『国富論』における見解の違いをみることから始まる。ルソーによれば、私的所有権制度の確立と分業の発展が、社会の不平等化の基本的な原因である。スミスはその点に大きな異議を持たないが、それ以上に、それらが生産力ひいては生活水準の上昇につながることを重視する。著者はその中に、「成長か格差是正か」という今日にもつながる論争の原型をみる。(なお、話を先取りすると、ピケティの議論においては、成長率が資本収益率を超えることで格差は抑制される。)
 スミス、マルクスなど古典派経済学の時代、普通の商品のみならず労働、資本、土地までもが市場メカニズムの下に置かれるようになると、不平等を生み出す中心的なメカニズムは資本蓄積、経済成長となる。また、理論の中心は「生産」であり、資本蓄積を行う主体は資本家に限られ、労働者と資本家の格差は開く一方と考える。一方、新古典派経済学では「取引」が中心であり、取引が生産を引き起こすと考える。古典派は「富」の所有が階級の違いを作ると考えるが、新古典派はそれは程度の問題と考え、不連続的な階級の違いを作り出すものとはみなさない。さらに資本の収穫逓減から、長期的には、最適な資本労働比率(資本の限界生産性が主観的割引率に一致する地点)が達成されるとする。このような新古典派の見方は、結果として成長と分配問題への関心を低下させる。
 著者のいう「不平等ルネサンス」──マクロ経済成長論の中での成長と分配問題への関心の復活は、クズネッツの「逆U字曲線」──経済成長の初期には成長とともに分配は不平等化するが、国が豊かになるとその傾向は逆転し、成長とともに分配は平等化するという経験則に対し、90年代以降、それとは異なる事象が目立つようになる中で勃興する。さらに、「不平等ルネサンス」においては、新古典派が⽣産問題と分配問題を分離し⽣産問題に関⼼を集中させる向きを持つのに対し、分配パターンが⽣産と資本蓄積・経済成⻑に影響を与える可能性が主張される。
 クズネッツの「逆U字曲線」が示唆するように、市場経済には平等化の力が備わっているのか、あるいはそこまではいえずとも、市場経済の中で発生する不平等は他の不平等化の力と比較して大したものではないといい得るのか――著者は、この「完全競争市場において、分配は平等化するのかしないのか」の問題について、未だベンチマークがはっきりしていないと指摘する。その上で、ラムゼイモデルと世代重複モデルという比較的一般的なマクロモデルに基づき、資本市場、内生的な技術革新の有無別に、初期における経済的不平等が動的にどのような経緯をたどるかを確認する。その結果、「資本市場が完備なラムゼイモデル」を除き、モデル経済は格差のない状態へと収束することがわかる。これらの結果を踏まえると、分配問題の処方箋としては、市場に介入する財政的再分配よりも資本市場の整備の方に優位性があるとの結論も導き得るが、一方で、国内レベル格差をみる上でより適切といえる世代重複モデルでは、資本市場がない場合には収束が遅れ、最終的な所得・富の水準が低くなる。さらに内生的な技術革新があり、資本市場がない場合は、資本の限界生産性が主観的割引率と一致することがなく、定常状態においても初期の不平等が解消されず持続することもある。
 「不平等ルネサンス」の理論家は、財政的再分配の必要性、特に人的資本の公的供給の必要性を指摘する。それは、これらの理論家が重視しているのは労働所得の格差であり、資本の所有に基づく格差を二次的なものとみなしているためである。人的資本には強い不確実性と外部性があり、完備な市場を構築することが困難であるため、公共的な政策が求められる。こうした「不平等ルネサンス」の立場とピケティの違いは、つぎのようなものである。

  • ピケティは、人的資本の格差よりも物的資本の格差を重視している。
  • 「不平等ルネサンス」は必ずしも「クズネッツ曲線」的な市場観に見直しを迫るものではないが、ピケティの立場は大きな見直しを迫るものであり、所得格差拡大の要因として技術革新よりも政治的な力学を重視している。
  • インフレ下における資産減価、債務者への所得移転は格差を縮小させることから、ピケティは、20世紀におけるインフレーションの拡大を重視している。

 ピケティのいう「r>g」は理論的に必然的な法則ではなく、経験的にみられる傾向である。「不平等ルネサンス」の理論家がいうように、資本所有の格差が縮小し人的資本の寄与度が高まれば、「r>g」であっても格差が強まるとは限らない。だが、ピケティの実証研究はその可能性に疑問を投げかけるものである。

「資本」の捉え方

 以上ざっとではあるが、本書に沿って、「不平等ルネサンス」に至る経済的不平等をめぐる理論の歴史、そして「不平等ルネサンス」とピケティとの違いを中心にみてきたが、本書のところどころで取り上げられる資本と労働*1をめぐる議論には興味が引かれる。
 ピケティについては、⼈的資本が考慮されないことが主要な批判の⼀つとなっているが、いずれにしても物的資本と⼈的資本の間は必ずしも明確に線が引かれるものではなく、中間的な無形資本も存在し得る。例えば、企業の研究開発投資はそういったものであり、今後はそれが資本として計測されることになる*2。⼀⽅、⼈的資本投資は費⽤計上され、法⼈企業や家計の資本として計測されることはない。逆の⽴場からは、法⼈企業の教育訓練投資や家計の教育費負担も⼈的資本として計測すべきとの議論が成り⽴ち得る。ピケティの議論では、⼈的資本は物的資本に付随して価値をなすものとされるが、計測され得る資本の中にも企業の研究開発投資のように同様の性格を持つものがある。そうした中で、経済的不平等を語る上で適切な「資本」とは何か、それはどのように計測し得るのかという点は、引き続き、オープンな議論のように思える。
 加えて、本書を読みつつ考えた点をいくつか指摘すると、近年の⽇本では、法⼈企業の内部留保が増加し貯蓄が増えている。いいかえれば、法⼈企業の資本の保有が⾼まる⼀⽅、⻑期的にみれば、⾦融市場における借り⼿としての性格は明らかに弱まっている。その⼀⽅で、家計の貯蓄率は低下傾向である。こうした動きは、インフレの経済的格差に与える影響にも変化をもたらす可能性がある。
 しかしこれらはいずれもフローの計測に基づく議論である。⼀⽅、ピケティが重視する資本の格差は、むしろストック⾯の格差を意味している。⽇本においては、ストック統計を利⽤した議論をあまり⾒かけることがなく、その背景には、資産調査を実施することの難しさがある。ピケティは税務統計を活⽤し実証的な分析を⾏っており、⽇本においても、ストック⾯の分析という観点から、税務統計を活⽤できる可能性がある。

*1:マルクス経済学や日本の社会政策論の中での労働に関する理論の歴史についての記述は、本書の中でもかなり重要な位置を占めているが、本稿では省略している(人的資本についても同様)。

*2:http://www.nikkei.com/article/DGXLZO91976040Q5A920C1NN1000/

真の失業率──2016年6月までのデータによる更新

 完全失業率によって雇⽤情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発⽣することで、完全失業率が低下し、雇⽤情勢の悪化を過⼩評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる⽅法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

6⽉の完全失業率(季節調整値)は3.1%と前年同⽉から0.1ポイント低下、真の失業率も3.3%と前年同月から0.1ポイント低下した。真の失業率は、引き続き、減少基調である。なお、インフレ率が低下する中で完全失業率は改善していることから、フィリップス・カーブはこのところ逆相関の動きとなっている。

 所定内給与と消費者物価の相関に関する5⽉までの結果は以下のようになる。賃⾦は4⽉以降、これまでの増加傾向から一転して減少に転じている。

その原因を素直に判断すれば、フルタイム労働者の所定内給与が伸び悩んでいることから、本年度の春闘におけるベースアップが低かったためということになる*1。ただしこれについては、新卒を含むフルタイム労働者の増加が続いており、相対的に賃金水準の低い雇用者の割合が高まったためとの見方もある*2

 最後に、今回は貿易サービス収支と名目実効為替レートの関係をみておきたい。

グラフからわかるように、リーマン・ショック後の時期を除いて長期的にみると、為替レートは貿易サービス収支に連動し、いわば内外経済の価格調整メカニズムの役割を果たすように動いている。よって現下の円高傾向は貿易サービス収支のプラス傾向と連動したものであり、金融政策が中立である限り、当面、その傾向は変わらないようにみえる。円高は輸入物価の下落を通じ消費者物価に下押し圧力として働くため、このところの物価の停滞は、しばらくは変わらないとの見方ができそうである。
 このことはいずれにせよ、日銀の金融政策目標が実体経済へ浸透する上での障害になるだろう。一方、このところの日銀は家計調査と異なる個人消費の指標をつくる等*3、まるで金融政策の効果が上がらないことを統計のせいにしようとしているようにもみえる。このような姑息な対応をしているようでは、組織として、各種経済主体のインフレ予想に影響し今後の経済動向を左右する目標を設定することは、もはや不可能なのではないだろうか。

https://dl.dropboxusercontent.com/u/19538273/nbu_ts.csv

*1:連合の集計結果によれば、昨年度と比較可能な組合について、賃金引上げ率のうち定昇相当分を除く分(賃上げ分)は本年度0.32%増と昨年度の実績(0.56%増)を下回る。:http://www.jtuc-rengo.or.jp/roudou/shuntou/2016/press_release/press_release_20160705.pdf?0706

*2:https://twitter.com/m_takaharasan/status/756339411441192961

*3:http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS02H5Z_S6A500C1EE8000/

真の失業率──2016年5月までのデータによる更新

 完全失業率によって雇用情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発生することで、完全失業率が低下し、雇用情勢の悪化を過小評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる方法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

5月の完全失業率(季節調整値)は3.2%と前年同月と同水準となったが、真の失業率は3.4%と前月からさらに0.1%低下した。真の失業率は、引き続き、減少基調である 。

 所定内給与と消費者物価の相関に関する4月までの結果は以下のようになる。物価と賃金は本来の相関関係とは逆向きに、物価が停滞する中で賃金が上昇していたが、4月は単月的な動きとして、賃金は大きく停滞した。

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真の失業率──2016年4月までのデータによる更新

 完全失業率によって雇用情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発生することで、完全失業率が低下し、雇用情勢の悪化を過小評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる方法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

4月の完全失業率(季節調整値)は3.2%と前年同月と同水準となったが、真の失業率は3.5%と前月よりも0.1%低下した。真の失業率は、引き続き、減少基調である 。

 所定内給与と消費者物価の相関に関する3月までの結果は以下のようになる。前月と同様、物価上昇率は足許では低下傾向となっている一方、賃金は足許で上昇傾向に転じている。物価と賃金は本来の相関関係とは逆向きの動きを続けているが、その要因としては、国内要因の物価上昇率(いわゆる「コアコア」)が引き続き上昇していることや、賃上げの効果がタイムラグを伴って効いてきたこと等が可能性としてあげられる。パート比率の上昇傾向も、しだいに抑制されつつあるようにみえる。

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中室牧子『「学力」の経済学』

「学力」の経済学

「学力」の経済学

 教育については誰もが持論を持ち、自分の意見を述べたがる。また、「自分が病気になったときに、まず長生きしているだけの老人に長寿の秘訣を聞きに行く人はいないのに、子どもの成績に悩む親が、子どもを全員東大に入れた老婆の体験記を買う」(本書で引用されている西内啓『統計学が最強の学問である』の中の言葉)といったように、例外的な個人の体験談が注目されがちな分野でもある。根拠のない主観的な持論が語られるのは世間一般においてだけでなく教育政策の現場でも同様であり、結果的に、科学的根拠のない政策に多額の予算が割り当てられることにもつながる。著者が本書を通じて訴えるのは、主観的な持論がまかり通る日本の教育政策への警鐘であり、また、学力テストに関するマイクロデータを利用できるようにすることで、多くの科学的根拠、エビデンスを積み上げることが可能になるよう、研究環境を整えることである。

 本書は、一般の親たちが知りたいと思い、また、それ自体が教育政策に通じる「学力を高めるには何が重要か」との疑問に対し、さまざまな仮説と欧米の研究事例を通じて答えていく。理論のベースとなるのは「教育生産関数」であり、これ自体は、マクロ経済学でいう成長会計のモデルを応用したものである。ただし、「学力を高めるには何が重要か」との問いに真に答えるには、学力と、それに関係し得る家庭や学校の資源との「相関関係」をみるだけでなく、「因果関係」を探ることが必要である。そこで用いられるのが「ランダム化比較実験」である。これは、セレクションバイアスのない二つのグループの一方に政策介入を行い、時間が経過した後、これら2つのグループ(処置群・対照群)の間に生じる学力の差を比較することで、政策介入の効果を測るものである。本書でサーベイされる研究のほとんどは、何らかの「実験」をもとに、因果関係に留意する形で行われている。「ランダム化比較実験」については、数年前に出版されたバナジー、デュフロ『貧乏人の経済学』を通じて、当時話題になったと記憶している。
 さらに「実験」の結果を解釈する上で、「双曲割引」(近い将来の時間割引率が遠い将来のそれよりも高くなること)など、行動経済学の知見が考慮される。例えば、「勉強は将来ためになる」といって子どもに勉強をさせようとしても、その便益は遠い未来の話であるため、いま現在の子どもの行動にほとんど影響を与えない。また、教員への成果主義において、成功した場合にボーナスを「得る」という形の制度よりも、成功しなかった場合にボーナスを「失う」という形の制度の方が効果が大きくなる。これは、人は得たものを失うことを嫌がる傾向を持つという「喪失回避」により解釈できる。実験経済学や行動経済学の手法・解釈は、欧米の教育経済学において、既にその主流の位置を占めていることが、本書を読めばよく分かる*1。このように本書は、教育経済学の近年の研究動向に関するよく纏まったサーベイともなっている。

 この他にも、さまざまな研究結果が紹介され、それぞれに興味を引くものであるが、例えば、

  • テレビやゲームが子どもの肥満や問題行動、学習時間に与える影響は小さく、1日1時間程度のテレビやゲームは子どもの発達や学習時間にほとんど影響を与えない。しかし、テレビやゲームの時間が1日2時間を超えると、発達や学習時間への負の影響は飛躍的に大きくなる。
  • 「インプット」にご褒美を与えることの効果は、「アウトプット」にご褒美を与えることの効果よりも大きい。ただし、成績を上げる方法を教え導いてくれる人がいる場合はそうとは限らない。
  • 習熟度別学習は、特定の学力層の子どもだけでなく、全体の学力を押し上げる。単に、学力の高い子どもが周囲にいることがプラスの影響を持つわけではない。1人の問題児の存在は、学級全体の学力に負の因果効果を持つ。
  • 子どもへの人的投資の収益率が最も高くなるのは、小学校に入学する前の就学前教育(幼児教育)である。人的投資の収益率は、子どもの年齢が上がるごとに小さくなる*2。就学前教育は、雇用、生活保護の受給、逮捕率などにも影響を与え、社会全体の収益率(社会収益率)をも高める。
  • IQや学力テストで測ることができる能力以外の「非認知能力」(意欲、自制心、リーダーシップなど)を過小評価してはいけない。 学校は単に勉強する場所ではなく、「非認知能力」を培う場所でもある。
  • 少人数教育は学力を向上させる効果はあるが、費用対効果は低い。教育の収益率についての情報提供を行うことは、最も費用対効果が高い。
  • ゆとり教育が実施された年に子どもの学力格差は拡大した。学歴の高い親に育てられた子どもは、土曜日の学習時間の減少を平日の学習時間の増加で埋め合わせたが、学歴の低い親はそのような行動を取らず、学習時間の格差が生じた。

といった感じである。こうした知見は、教育政策に活かすことで、予算を効率的に使うことにもつながる。

 著者は、国の予算の厳しい獲得競争の中、文教予算は15年で 20%削減されてきたことを紹介する。一方、日本の財政赤字から、教育にのみ無尽蔵にお金を使うわけにはいかないとし、だからこそ国や家計が教育にかけられる予算をどのように使うのかが重要なのだとする。もちろん、国の予算のゼロサム的状況はマクロ経済政策上の課題であって、教育政策に割り当てられるべき課題ではない、との批判は可能であり、恐らくその批判は正しい。さらにいえば、文教予算の拡充は、将来的に、国の生産性を高めることにもつながる。とはいえ、予算を効率的に使うこと自体は言うまでもなく正しい方向性であり、そうした批判をもって本書の価値が下がるものではない。

*1:「ランダム化比較実験」は、計量経済学的な因果性分析と違い直感的に理解しやすいため、政策現場で用いることが容易である点も見逃せない利点である。

*2:日本の場合、高校3年間の投資に対する将来収益が最も高くなりそうな印象もあるが、そもそも勉強の「仕方」が分からなければ、投資は効果を生まない可能性もある。

真の失業率──2016年3月までのデータによる更新

 完全失業率によって雇用情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発生することで、完全失業率が低下し、雇用情勢の悪化を過小評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる方法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

3月の完全失業率(季節調整値)は3.2%と前月よりも0.1ポイント低下し、真の失業率も3.6%と前月よりも0.1%低下した。真の失業率は、引き続き、減少基調である 。

 所定内給与と消費者物価の相関に関する2月までの結果は以下のようになる。物価上昇率は停滞傾向を示した後、足許では低下傾向となった。一方、賃金はパートタイム労働者の構成比が2月に限れば低下しており、足許で上昇傾向に転じている。このため足許では、物価と賃金は本来の相関関係とは逆向きの動きである。

https://dl.dropboxusercontent.com/u/19538273/nbu_ts.csv