備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

オリヴィエ・ブランシャール(田代毅訳)『21世紀の財政政策 低金利・高債務下の正しい経済戦略』

 原著は2022年刊で、原題は”Fiscal Policy under Low Interest Rates”。自分の世代的には、著者は、マクロ経済学の教科書としてある種「定番」であったスタンレー・フィッシャーとの共著”Lectures on Macro Economics”*1の著者として夙に知られており、同書を通じ、ニューケインジアン・エコノミクス*2への理解が広がった印象を持つ。今でも、世界的なマクロ経済学者の一人とみなすことに疑問を挟む人は少ないものと推察する。

 今般の新著は、上記の専門書とは異なり、一部に数式は用いられるものの、より広く読まれることを意図した筆致となっている。世界的に、また歴史的にも(中立)金利*3の低下が続く中、公的債務、財政赤字、財政政策の意義について改めて見直す必要性を指摘する。金利が実効下限制約に達すると、一国経済はいわゆる「流動性の罠」に陥り、名目金利の操作による金融政策の追加的な余地は非常に小さなものとなる。この場合、潜在的な生産力を実現する上で財政政策の役割がより大きなものとなり、またそうした状況では、公的債務のコストは低くベネフィットは大きい可能性が高いとする。
 今から15年ほど前、ラインハート=ロゴフ『国家は破綻する』(原題”This Time Is Different”)が、公的債務(対GDP比)が9割を超える国では経済成長率は劇的に減速するとの分析を示し、その主張は大きな影響力を持つことになったが、後にその主張は誤りとされた*4。本書は公的債務の在り方に関し、これとは正反対の方向性を示すものとなっている。

 同様の意図を持つ主張として、数年前から盛んに議論されるようになったMMT(Modern Monetary Theory)がある。そこでは、自国通貨建て国債はデフォルトしない*5こと、インフレ率が長期的に安定することを前提に、政府が” Employer of Last Resort”となり、財源に歯止めをかけることなく失業者の雇用を確保することを提唱する。またこれにより政府は賃金の最低限度額を定めることが可能になる。
 一方、本書は一般的なマクロ経済学の作法に沿い、モデルを用いた議論を展開する。MMTに関しても注記に記述(p.191)があるが、何度も議論した結果「正確に理解することは困難」であるとし、中立金利が非常に低い場合は同じ見解となるが、高い場合はそうではないとする。ちなみにMMTの主張の中にあるJGP(Job Guarantee Program)は、かつての日本にあった失業対策事業とも類似するが、当該事業には労働政策的性格と社会保障政策的性格を併せ持つという政策割当上の曖昧さがあり、また作業能率の低下や事業への長期滞留など様々な問題に直面したとされている*6

 全体は7章で構成されるが、理論的に重要な意味を持つのは第2章から第5章までであり、特に第4章が本書の白眉である。さらに第6章では、日本のマクロ経済政策と公的債務の持続性に関し、示唆に富む分析が行われている。

*1:https://mitpress.mit.edu/9780262022835/lectures-on-macroeconomics/

*2:世界金融危機以前はマクロ経済学の理論として絶対的な地位にあったと考えられる。

*3:本書では、実質(中立)金利について r r^*)の記号で表現されるが、ピケティ『21世紀の資本論』等で同記号で用いられる金利とは異なる概念であることが留意されている。本書では特段の言及がない限り、実質リスクフリーレートとして扱われる。

*4:https://www.reuters.com/article/zhaesma01514-idJPTK837324720130418

*5:この点は財務省も同様の見解を示している:https://www.mof.go.jp/about_mof/other/other/rating/p140430.htm

*6:https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBb1150202.pdf

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渡辺努『世界インフレの謎』

 2022年10月刊。パンデミックウクライナ戦争のさなか、欧米諸国で生じた世界インフレの原因を探る。2022年2月に始まるウクライナ戦争を契機として、原油穀物等の供給制約が生じ、コスト・プッシュ型のインフレが生じているが、専門家によるインフレ予想はその1年ほど前から趨勢的に高まっていた。この世界インフレの確たる要因は、現時点において、まだわかっていないが、著者が考える世界インフレの要因は、パンデミック後、人々の生活様式の変化が「同期」し、供給側の変化を通じ、「新たな価格体系」に移行する過程にあるため、というものである。
 パンデミックが引き起こした人々の行動変容は、政府の介入効果よりも、情報効果により人々が恐怖心を持つことで生じた。消費は、これまでのトレンドが反転しサービス消費から財の消費にシフト、財の生産が間に合わないことでその価格は上昇する。米国では非労働力人口が急激に増加し、その後も労働市場に戻らない”Great Resignation”ないし“Great Retirement”と呼ばれる現象が生じている。企業においてはパンデミック以前から、地政学的リスクに起因した「脱グローバル化」が生じていたが、この傾向はパンデミック収束後も戻らない。これらパンデミックの「後遺症」による長期トレンドの大きな変化は、突然に生じ、いずれもインフレを高めることに寄与する。

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ジェイク・ローゼンフェルド(川添節子訳)『給料はあなたの価値なのか 賃金と経済にまつわる神話を解く』

 原題は”You’re Paid What You’re Worth: And Other Myths of the Modern Economy”で、2021年に出版(邦訳は2022年2月刊)。
 著者は、大学学部での社会学の講義をきっかけに「なぜある人はたくさんもらって、あるひとはもらえないのか」との疑問を持ち、給与の決定に関する既存の説明を疑うようになった、とのことである。その既存の説明とは、賃金を労働の限界生産物とする新古典派経済学のそれであり、またそれと整合的な人的資本モデルである。しかし労働の限界生産物を測ることは困難である。企業が従業員と取り交す給与秘密保持契約は、企業と従業員との間に情報格差を生じさせ、労働市場において買い手独占の状況を生む。また企業は従業員と競業避止条項を含む契約を交すことで、労働移動に伴う給与上昇に制約を課す。
 米国では、上位層の給与が急激に伸び、平均的労働者の賃金は停滞することで、格差が広がっている。その要因について「決定版」(サマーズ)とされる説明が技能偏向的技術進歩であり、人的資本モデルとも合致する。この考えによれば、高度な技能を要求する仕事の増加に対応するため、教育を再構築することが政治的課題となる。しかしこの説明には瑕疵があり、格差が拡大する中、大学の賃金プレミアムは低下している。また技術進歩の影響を受けず学歴を必要としない仕事でも、賃金は大きく低下している。

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今年の10冊

 恒例のエントリーです。本稿では、今年出版された書籍ではなく、今年読んだ書籍の中から10冊を取り上げます。以下、順不同で。

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重田園江『ホモ・エコノミクス-「利己的人間」の思想史』

 2022年3月刊。ホモ・エコノミクスとは「合理的経済人」、すなわち自らの経済的・金銭的利得を第一に考えて行動し、あらゆる情報を考慮し、計算を間違えず、自らの選好を熟知し周囲に流されず、常に合理的に行動する人間像を意味する。経済学では、個人から出発し社会を考える方法論的個人主義に立脚し、社会的選択や意思決定は、ホモ・エコノミクスで構成される社会を前提に行われるとする。このような経済学への批判の一つとして、ホモ・エコノミクスの非現実性がある。本書も同様な批判的視点から、ホモ・エコノミクスの歴史を辿る。

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マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)『実力も運のうち 能力主義は正義か?』

 2021年刊。原題は”The Tyranny of Merit What’s Become of the Common Good?”。本書に語られるのは、米国のメリトクラシー、学歴偏重主義の問題である。これは日本にもある程度当てはまる話だが、米国では、アイビーリーグ等の名門大学に入学する学生の所得階層は、それらの大学が気前の良い学費補助を行う中でも高所得層に大きく偏る。このことは、《名門大学に入学できたのは、高所得家庭に産まれたという幸運によるものだ》ということの証左とみることができる一方、《自分の成功は自分の手柄、自分の努力の成果、自分が勝ち取った何かである》との信念に魅力を感じる学生はますます増えている。こうした信念は「功績の横暴」を生む。すなわち自分たちが巨額の報酬を受け取ることを当然とみなし、《低学歴で低所得層であるのは彼らの落ち度によるものだ》とする「驕り」へとつながる。
 また高まる学歴偏重主義は、イギリスの社会学マイケル・ヤングがその著書”The Rise of Meritocracy”の中で指摘したように、勝者の中には驕りを、敗者の中には屈辱を育み、社会的軋轢を招く。このことは近年の英国のブレグジット、米国のトランプ現象の主たる要因でもあり、大きな社会的分断を生み出している。

 本書の内容からは離れるが、日本についても同様のことは指摘できる。生まれつきの容姿、能力、家庭環境で人生が大きく左右されるとの認識から、ネットを中心に「親ガチャ」という言葉が人口に膾炙した。自身の恵まれた環境を隠し、名門大学に入学できたことを自らの手柄のように主張する向きが「炎上」を引き起こすこともある。こうした社会の雰囲気が生み出す対立の間には、既に「超えられない壁」があり、その分断は、一面としては(かつての共産主義が夢見たように)国家間の対立をも超える「階級」内の同調を引き起こすのではないか、と感じる程である。
 また同時に、通常の一般選抜を経ず家柄等により予め入学が決められることについて、厳しい入試の渦中にある者の忌避感は極めて強い。こうした忌避感が全国的に生じれば、古い伝統をも破壊する威力を持ち得るのではないか、とも感じる。

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「中流危機」の実態を確認する

 本年9月に放送されたNHKスペシャル『“中流危機”を越えて』は、生活水準や社会階層に関する意識調査*1の結果を参照しつつ、日本の「所得中間層」の実態を取材するものだった。

www.nhk.jp

かつて一億総中流と呼ばれた日本で、豊かさを体現した所得中間層がいま、危機に立たされている。世帯所得の中央値は、この25年で約130万円減少。その大きな要因が“企業依存システム”、社員の生涯を企業が丸抱えする雇用慣行の限界だった。技術革新が進む世界の潮流に遅れ、稼げない企業・下がる所得・消費の減少、という悪循環から脱却できずにいる。厳しさを増す中流の実態に迫り、解決策を模索する2回シリーズ。

 このブログでは、これまで、勤労者世帯を中心に世帯収入の格差を分析してきた。特に勤労者世帯では、収入格差と完全失業率との間に一定の関係性がみられ、格差の問題は(前稿で取り上げた賃金の問題と同様)雇用の問題に直結するものであった。
 ところが、改めて確認した世帯収入の格差(ジニ係数)と完全失業率の関係は、これまでの傾向と異なる。またこの変化は、「この25年」ではなく、ほぼ「この5年」のうちに集約できる。

 完全失業率は、いわゆるリーマンショック期の2009年から、新型コロナウイルスの蔓延が始まる2020年まで、一貫して低下している。一方、勤労者世帯のジニ係数は、2010年代始めは低下する傾向にあったものの、2017年を底にして上昇に転じた。

*1:労働政策研究・研修機構『暮らしと意識に関するNHK・JILPT共同調査』(https://www.jil.go.jp/press/documents/20220916.pdf)。

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