備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

浜田宏、石田淳、清水裕士『社会科学のためのベイズ統計モデリング』

 「社会科学のための」と謳われているように具体的な政策分析事例を取り上げ、加えて「文系人間」でも数式展開を追えるよう丁寧に説明される。統計モデリングに関しては、いまも一般化線型モデル(GLM)を最尤法で推定するのが一般的かつ説明も容易であると思われるが、本書をひと通り読むと、(GLMでは得られない)ベイズ統計モデリングの「威力」を徐々に垣間見ることができるようになる。(各種の記述統計から回帰分析、P値へと進む)一般的な頻度主義統計学に係る記述はなく、情報量、エントロピー(平均情報量)、カルバック=ライブラー情報量(擬距離)、汎化損失、自由エネルギー等の情報理論に関係する概念が最初の段階で取り上げられ、これらが統計モデルの推定と評価において重要な役割を果たす。

 「自分でモデルをつくるという作業は知的で楽しい経験」[p.8]であるが、客観的に妥当なモデルを「一から」構築するのは容易ではない。GLMの場合、既に活用されているモデルがあれば、それを使うのが(恣意性が低く)説明も容易になりがちである。
 一方、そのモデルの実証可能性が高いのは何故か、そのメカニズムを明らかにするのは容易ではない。ベイズ統計モデリングでは、データ生成メカニズムを「トイモデル」により明確化することで、統計モデルの「ミクロ的基礎付け」が可能になる。

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柄谷行人、浅田彰『全対話』

 1980年代から90年代にかけての対話を集約しており、以前、何処かで読んだことのある文章がほとんど*1バブル崩壊金融危機以前の時代性が色濃く感じられ、長期停滞期を経た今とは文脈が異なる。加えて、経済学的な視点からみると、現在の論壇水準から乖離した「稚拙」さがある*2。「グローバリズム」という概念は未だなく(もしくは意味合いが異なっており)、それが現れる直前の極限点に思考を進めるが、現在の視点からすれば日本的「ポスト資本主義」といったものにリアリティは感じない。
 日本的「コーポラティズム」批判にしても、そもそも、日本には「主体」がなく関係主義的なので「コーポラティズム」も容易なのだ、といった物言い自体、唯物的ではない。日本の雇用システムは、幾度かの批判の反復を繰り返しつつ、その都度柔軟かつ漸進的に変化している。女性差別に関する発言を読めば、この30年間で「日本もだいぶ変わったな」との印象を誰もが持つだろう。一方で、「個人の罪が親類にまで及ぶ」、「封建的な恥の文化とそれに基づく相互監視システム」[p.174]という指摘については、現在の日本でも然程変わってはいはない。むしろネットで検索が容易になった分、赤の他人から家族や親族の素性を暴かれることすら珍しくはない。最近では、家族の新型コロナが職場等に広がり、その地域に住むことができなくなった事例なども聞く。よく韓国の庶民が持つ「恨の文化」が指摘されたりするが、日本の庶民の中にも似たような要素はある。

 「新大衆社会」が進行する中でのインテレクチュアルの在り方について、それなりの危機意識は感じられる。当時の思想・批評論壇は、少なくとも今より国際性豊かである。「外部」からの視点がないと「オリエンタリズム」に陥る、ということだろうか。天皇制、マルクス主義、宗教等に関する議論では、現在は希薄化した「リアル」なものが存在している印象を残す。現在の視点からすれば「理念」(言葉)はますます道具的となり戦略的に用いられるが、(憲法9条に関する部分などを読むと)著者らもそうした「理念」の使われ方を否定しているわけではない。

 著者らの議論はメタフォリカルである。本書の内容とは離れるが、例えば、柄谷行人『内省と遡行』について「氏の最高傑作」との呼声は(一部において)今だ高いものがあると認識しているが、それに連なる前作の「形式化の諸問題」ではゲーテルの不完全性定理に言及し、数学、ひいては科学の非合理性を主張するなど、「地に足がついていない」印象を残した。本書でも、総じて自然科学、(経済学を含む)社会科学に対し論壇的な上位性を自負しているような印象があり、ペダンチックさは否めない。
 また、本書では歴史の隠蔽(天皇制に関する事など)について議論されており、この認識が、例の「プラトンソクラテスを」「エンゲルスマルクスを」的な(反証可能性のない)隠蔽の階梯話につながった可能性はある。

 最後はマルクスについての議論で締められるが、それを読みつつ改めて、マルクスというのは経済学が古典派から新古典派へ「進化」する際の「必要悪」のようなもの、との印象を持った。労働価値説から効用価値説へ移行する上で、マルクスの自己疎外論や価値形態論は、必然的に経過すべき地点にあるのだろう。自分には、マルクスとはそのように学説史の中間地点として評価すべきものであって、それ以外の(ある種宗教的な)意味合いなど持たせる必要はないと感じられる(現在は「効用関数の極大化」という根本の条件すら遠景に遠のき、その一階条件の「オイラー方程式」がら全ての話が始まるような印象もある)。

転向の問題

 「昭和の終焉に」の中で、遠藤周作『沈黙』について、つぎのように述べている。

柄谷 遠藤周作が『沈黙』だとかを書いてきたときに、ぼくは、マルクス主義者の転向問題と重なっているのかなと思って読んだんだけれども、じつは戦争中の日本のキリスト教との転向問題なんですよね。日本のキリスト教は巧妙に転向したんですよ。戦後、その問題を全然やっていない。全共闘の頃に神学系の大学でいくらかあったんだけれども、全面的な追及にはならなかったと思います。
 むしろ、遠藤周作がやったのは吉本隆明がやったのとよく似ていまして、転向するみじめさ・卑小さのほうに真の信仰への契機があるとか、より神に近くなるとかいう論理です。転向そのものを救済に変えてしまう、そいういう転向論を完成したんじゃないかな。しかし、それは日本のカトリックの思想にすぎないと思うんですよ。カトリックの現状をみますと、「解放の神学」みたいなもので徹底的にやってますからね。日本のカトリックの『沈黙』的な自己正当化なんていうのは、世界性を持ってないと思う。[pp.54-55]

沈黙(新潮文庫)

沈黙(新潮文庫)

 加えて、小林秀雄は『私小説論』で、マルクス主義は日本人に初めて、「いわば絶対的な神のような、宗教が持っている以上の絶対的なものを突きつけた、という意味のことを言っている」とし、「本当に転向問題をもたらしたのはマルクス主義で、それは本質的に西洋的なものだったから」だと発言している。

*1:土人」の国発言や明治・昭和反復説など、懐かしい話も出てくる。

*2:例えば、ケインズ主義に言及しつつ、GNPにも金融政策にも言及しないなど。ただしマクロ経済学的な視点は有しており、言葉自体は出ないが「合成の誤謬」を認識している。また、戦前の石橋湛山に対する評価や「大蔵官僚なんかは、国家ならぬ国庫のことを憂えている」という浅田発言には妙に共感する。

真の失業率──2020年11月までのデータによる更新

 完全失業率によって雇用情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発生することで完全失業率が低下し、雇用情勢の悪化を過小評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる方法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

※ 真の失業率のグラフは、後方12カ月移動平均から季節調整値に変更

 11月の結果をみると、完全失業率(季節調整値)は2.9%と前月から0.2ポイント低下、真の失業率も2.6%と前月(2.9%)より0.3ポイント低下した*1。雇用情勢の改善傾向は明確となり、完全失業率は(当面)ピークを打ったとみられる。

 休業者(前年差)の増加幅はほぼ例年ベースとなった。就業者数の前年差は、週30時間未満就業者の増加により55万人減と前月(93万人減)よりも減少幅が縮小した。*2

 所定内給与と消費者物価の相関に関する10月までの結果は以下のようになる。物価は引き続き停滞しているが、賃金は上昇した。

(注)本稿推計の季節調整法を、2020年1月分から変更*3した。

*1:4月は、季節調整のための事前調整モデルを推計する際、AICテストの結果レベルシフトが検出されている。

*2:月末1週間の就業時間別にみた当該データは、即位の日を含むゴールデンウィークに重なる昨年4月等、祝日の変化による前年差への影響が大きい。

*3:X-12-ARIMAからX-13-ARIMA-SEATSに変更し、曜日効果、異常値はAICテストにより自動検出(モデルは自動設定)とした。

デイヴィッド・ハンド(松井信彦訳)『「偶然」の統計学』

 人は「偶然」を恰も「必然」であるかのように感じ、物語を紡ぎ出すことがある。またその「偶然」は、さほど珍しくないにも拘わらず、極めて稀なことのように思えてしまう。本書は、こうした「偶然」の特徴を統計学の知見をもとに、わかりやすく説明する。原題は“The Improbability Principle Why Coincidences, Miracles, and Rare Events Happen Every Day”であり、本文中では「ありえなさの原理」という言葉が使用される。

 最初に、数学者ボレルの発言に因む「ボレルの法則」—確率が十分に低い事象は決して起こらない—が取り上げられる。「十分に低い」というのは、人間的な尺度、地球的な尺度、宇宙的な尺度など、問題に応じ、その問題を考えるにおいて無視し得る、といった意味合いを持つ。個人的印象では、「ボレルの法則」とは、連続確率分布を考えたとき、確率密度関数 q(x)が仮に最大になる点 x=aであっても、その「一点」における確率はゼロになること、


P(a \le x \le a) = \int_a^a q(x)dx = 0 \hspace{10mm} q(a) \neq 0

を表現しているようにも感じられた(測度論とも相性はよい)。

 しかし一方で、世の中は驚くような出来事でありふれている。代表的なものとしては、本書のそこかしこで引用され(その都度disられ)るカール・ユングの『シンクロニシティ』である。この疑問には、筆者が「ありえなさの原理」と呼ぶ「到底起こりそうにない出来事はありふれている」という主張が答えてくれる。

ありえなさの原理

 筆者のいう「ありえなさの原理」とは、つぎの5つの法則である。

  • 不可避の法則

 起こり得るすべての結果を一覧にしたなら、そのうちのどれかが必ず起こる。サイコロを振れば、1〜6のどれかが必ず出る。

 十分に大きな数の機会があれば、どれほどとっぴな物事も起こっておかしくない(「ボレルの法則」も分母次第)。「組合せ」は機会の数を爆発的に増やす(プログラミングで全探索する際の○重ループでTime Limit Exceeded...など)。

  • 選択の法則

 事象が起こった後に選べば、確率はいくらでも高くできる。大災害のあと何かしらの兆候があったと暗に主張すること、ルーズベルトは日本軍の真珠湾攻撃を予期していたとする説など(後知恵バイアス)。

  • 確率テコの法則

 正規分布とコーシー分布は、見た目にはあまり違いがないが、nσのようなテール部分(極めて稀な事象)の確率には大きな違いがある。株式市場では、(正規分布を基にすれば)「10万年に一度しか起こらない」ような暴落が頻繁に起こる。

  • 近いは同じの法則

 十分に似ている事象は同じものとみなされる。カール・ユングにとって、患者が彼に甲虫の夢について話しているとき窓辺に甲虫が現れたことは偶然の一致であるが、筆者にとっては、大きな虫が窓を叩く音を耳にするのはありふれた現象である。しかも、その現象は結構うるさく、起こったなら確実に気づく。

 これらの「ありえなさの原理」は、人間が生まれつき持つ「思考の癖」による。これは、行動経済学においても取り上げられる人間の思考のバイアスである。よって、ありきたりの出来事を極めて起こりそうにない出来事のように感じてしまうことになる。

 一方で、極めて起こりそうにない出来事(「ボレルの法則」に従えば決して起こりえない出来事)を目にしたときは、状況の理解に誤りや見落としがあった可能性がある。データが得られたら、競合する説明それぞれについてそのデータが得られる確率を計算し、その確率が最大となる説明を選択することは「尤度の法則」などと呼ばれ、統計的手法の一つの基本原理である*1。十分に起こりそうにないと見えたときは、それを疑う根拠が存在することを持って他の説明を探す、というのが統計的推論の基本となる。

*1:この尤度原理については、現代思想2020年9月号『統計学/データサイエンス』掲載の小島寛之三中信宏対談で取り上げられており、非常に興味深いものとなっている。

小島氏が尤度原理の「わからなさ」を述べるのに対し、三中氏は、尤度原理は「決して正しい結論を導き出すための方法ではない」、「統計学というのはもともと真理の発見といったことを求めていないというか、そもそもあの学問体系では無理」と指摘する。

東浩紀『ゲンロン戦記 「知の観客」を作る』

 2010年に創業された株式会社ゲンロンのこの10年間の歴史を、創業者で2018年末まで代表を務めた哲学者、批評家、東浩紀の視点でから振り返るもの。筆者は(本書の「はじまり」に記載があるが)1993年に柄谷行人浅田彰が共同編集する論壇誌『批評空間』でデビュー*1、1998年にジャック・デリダに関する哲学書存在論的、郵便的』を出版している。自分が持つ筆者「東浩紀」に対する認識も、この時代のそれが中心を占めており、その後『郵便的不安たち』や、当時話題に上がった『動物化するポストモダン』は(かなり遅れて)読んだものの、柄谷・浅田に見出された若手批評家、「否定神学」批判や「超越論的」対象の複数性に関する(概ね同年代の)論者との位置付けから、いまもさほど変化していない。(そのためか、本書の中程で、ゲンロンカフェにて浅田彰の還暦祝いをやった、との話を読んだ時はとても感慨深かった。)
 なお『存在論的、郵便的』の表紙裏に記載されている著者略歴の写真は、本書の表紙の写真とは、まるで別人である。

 本書の位置付けは確かに哲学書でも自伝でもないが、自分としては「2010年代の人文・哲学分野のマーケットとはどのようなものであったのか」というメッセージ性を強く受けた。ゲンロン(というよりも筆者自身)が当初、その「商品」を企画する上で中心に据えたのは、いわゆる「ゼロ年代系」と呼ばれる若手論客とのことで、当時は筆者自身もサブカル批評や情報論でそれに近い世界観を有していたものと思われる*2。しかし結果的にその試みは成功せず、後半では、その試み自体「ホモソーシャル」なコミュニティへの嗜好性として否定的に捉えられることになる。
 自分自身は「ゼロ年代系」の論壇にはこれまであまり関心を持たず、一方で学術書論壇誌の影響力が(ネット上のそれを含め)しだいに縮小する中、オンライン・サロン、あるいはオフラインのコミュニティ、教育事業、動画配信コンテンツ等が、大学、マスメディア等の既存の権威性に依存することなく市中のどこからか現れ、独自のマーケットを形作っていくのがいまの動向ではないかと感じていた。こうした動向は別に人文・哲学系のコンテンツに限られるものではなく、自然科学や社会科学系のコンテンツでも同様にみられるものである*3
 本書の第3章「ひとが集まる場」には、ゲンロンがこうしたマーケットの形成に果たした役割、特に、その試みが各種コンテンツのデフォルト的価格設定にもつながった可能性が述べられている。筆者は、これをイノベーションと捉えており、イノベーションを産む上での「誤配」(自分のメッセージが本来は伝わるべきではない人に間違って伝わってしまうこと、本当は知らないでもよかったことをたまたま知ってしまうこと)の重要性を指摘する。

 ゲンロンはもともと、若手論客が集まる出版社を目指して創業されました。ところがいつのまにか若手論客はいなくなり、出版も暗礁に乗り上げた。
 そんななか、ゲンロンを救ってくれたのが、カフェとスクールというふたつの「誤配」から生まれた事業だったわけです。そのような経験を経て、ぼくは、ゲンロンというのはけっしてぼくの哲学を伝えるための媒体なのではなく、ゲンロンそのものがぼくの哲学の表現だと自覚するようになったのです。[p. 95]

 2010年代、(ゲンロンではなく)むしろ言論を救ったのが、そうした形態の事業だった可能性もある。

観光客の哲学

 上述のように本書は哲学書ではないが、筆者が近年述べるようになった「観光客の哲学」については、ゲンロンの未来とも絡め、最終章で明確に取り上げられる。

 ぼくは『観光客の哲学』で、コミュニティには、「村人」(友)でも「よそもの」(敵)でもない第三のカテゴリの人々が必要で、それが「観光客」なのだと主張しました。ぼくがいま言っているのは、それと同じことです。観光客を集めるためには商売をするしかありません。観光客=観客は、村が質のよい商品を提供するかぎりで、村に関心をもってくれます。それは冷淡な態度にみえるけれど、そのような人々に開かれることでのみ、ひとは「村人」と「よそもの」の世界を分割する単純な思考から抜け出せるのです。貨幣と商品の等価交換こそが、友と敵の分割を壊すのです。[p.253]

 ゲンロンという場が生み出すのは、プロの書き手だけでなく、それに対価を支払う(教養を持った)「観客」で、さもなくばそれを取り囲む層は「信者」と「アンチ」だけになる。課金システムも重要で、SNSのような無料のコミュニティーでは、スケールは大きいものの(あえて「炎上」することでマーケットを広げるような)軽薄な言論に終始する。
 またそれはオンラインサロンが想定するユーザー層とも異なる。筆者は、オンラインサロンに集う人々は、「カリスマ」に(論理的な判断ではなく)感情でつながる人々で、そのビジネスは、「信者」が「アンチ」に変わる前にできるだけ効率的にお金を集めてしまおう、というものだと看破する。

 一方でゲンロンにも(筆者はそれをオンラインサロンと同一視することには否定的だが)友の会組織があり、年会費を支払うことで、『ゲンロン』の配賦、カフェの割引サービスが受けられ、年1回、会員限定のパーティが開かれる。また第5章のアンケート結果などもみる限り、人文・哲学系マーケットの性、年齢、職業等の属性、「求めるもの」等の傾向にはあまり目新しいものはなく、「ホモソーシャル性」の傾向にかつてとの違いはないように感じられた*4。ゲンロンが本格的に「東浩紀」という一人称から離れるのもまだ先であり、果たしてそれが可能かどうかも、いまのところはわからない。加えて「左翼の内ゲバ」のような混乱が数年おきに生じているようにもみえる…
 5年後10年後にゲンロンがどのような姿をみせてくれるのか、付かず離れずの立場から、引き続き眺めていきたいと感じる。

*1:デビュー作は『ソルジェニーツィン試論--確率の手触り』。ソルジェニーツィンの文学をドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』にある大審問官説やカフカの文学と比較しながら、隠された「『根源的』な問い」を露わにし、その回答を「確率」的なもの(「無作為抽出」的なもの、の意か)として捉え直す。このような「根源性」の探究(「否定神学」批判)は当時の社会思想・文芸批評論壇によく見られたもので、同時代性が感じられる。

*2:というよりも「ゼロ世代系」論客のスタイルの原点は概ね「東浩紀」にあるのではないか、と当時は考えていた。いわゆるリーマンショック前の時期ではあったが、就職氷河期など若年雇用の問題はほぼ顕在化していた。個人でウェブサイトを開設しても一定の「顧客」が見込まれた時代であり、人文・哲学系マーケットはいまよりも活況を呈していたように思われる。

*3:こうした動向には、(かつては全くフィージビリティがなかった)クラウドファンディングによる資金到達が現実に可能になったことも加えることができる。

*4:本書では「IT関係」(起業家だけでなく会社員も含まれると思われる)のウェイトの高さが強調されているが、この点は2000年代後半から2010年代前半にかけてのネット経済論壇にも共通していたように思う。現在、情報系学科の人気は極めて高いが、同様の傾向は1990年代前半頃にもみられた。しかしその後、情報系の人気は凋落、「デスマーチ」といった言葉に代表されるように世間にも「IT土方」的イメージが広がった。ゲンロンもネット経済論壇と同様、1990年代以前からのITブームに乗り当該産業に入職した層に対しカタルシス効果をもたらした可能性がある。現在のITブームは、その何度目かの反復であるが、外資ベンチャーが中心を占めるところにかつてとの違いがある。

今年の10冊

恒例のエントリーです。以下、順不同で。

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真の失業率──2020年10月までのデータによる更新

 完全失業率によって雇用情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発生することで完全失業率が低下し、雇用情勢の悪化を過小評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる方法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

※ 真の失業率のグラフは、後方12カ月移動平均から季節調整値に変更

 10月の結果をみると、完全失業率(季節調整値)は3.1%と前月から0.1ポイント上昇したが、真の失業率は3.0%と前月(3.1%)より0.1ポイント低下した*1

 休業者(前年差)の増加幅はほぼ例年ベースとなり、新型コロナウイルスの蔓延に伴い、就業者数は、最終的には前年差で概ね100万人の減少となったとみられる。*2

 所定内給与と消費者物価の相関に関する9月までの結果は以下のようになる。物価は引き続き停滞、賃金は若干上昇した。

(注)本稿推計の季節調整法を、2020年1月分から変更*3した。

*1:4月は、季節調整のための事前調整モデルを推計する際、AICテストの結果レベルシフトが検出されている。

*2:就業者数(季調値)とESPフォーキャスト調査の結果を用いたGDP就業者関数による予測では、2020年第4四半期の前年差は、約163万人の減少(2021年第4四半期まで、さらに約27万人減少)と予測していた。月末1週間の就業時間別にみた当該データは、即位の日を含むゴールデンウィークに重なる昨年4月等、祝日の変化による前年差への影響が大きい。

*3:X-12-ARIMAからX-13-ARIMA-SEATSに変更し、曜日効果、異常値はAICテストにより自動検出(モデルは自動設定)とした。